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【小説】ロード

 阪神高速湾岸線を神戸に向かって走り出すと、夜は闇の衣を脱ぎ捨て、街は目を覚ましはじめた。

 早起きはつらいけれど、夜明けの街を駆け抜けるのは気持ちがいい。アクセルを捻ると、CBR1100XX「スーパーブラックバード」――20年来のおれの相棒は、即座に反応し、日常の風景を置き去りにして加速する。オートバイはおれを自由にしてくれる。

 空はだんだんと明るくなってきたけれど、大阪湾沿いを弓状に伸びる湾岸線は、まだ夜のなかだ。行く手遥かに黒々と連なるのは六甲の山脈(やまなみ)。その山裾を帯状に彩っているきらめきが神戸の街の灯りだ。まずあそこを目指して走ろう。

 CBRの上に身体を伏せ、更にアクセルを開けると、ヘルメットが風を切り裂く音がひときわ大きくなった。




「え……マジで?」

 オートバイには思い出が多い。10年前、達也から結婚すると聞かされたのも、バイクツーリングの帰り道に立ち寄ったサービスエリアでのことだった。友人からの突然の告白に、飲みかけの缶コーヒーを手に持ったまま、おれは自分の思考を必死にまとめようとした。

 大学のとき同じゼミだった達也は、おれと同じアニメ好きのゲーヲタだ。リアルの女性と付き合ったことは一度もない。そもそもバイクに乗りはじめたのも、ずっと部屋にこもり通しで、ゲーム廃人になってゆくおれたちの未来をなんとかしようと考えたおれのアイデアだった。そんな男が急に結婚すると言い出すなんて、夏に雪が降ってもこのときほど驚かなかっただろう。

「だれと」

「お前と、神戸であった『街コン』に参加しただろ」

「春にあったあれか」

 街コンは30代半ばを過ぎても異性と付き合ったことのないふたりが、「そろそろヤバいんじゃねーか」とはじめて参加したイベントだった。神戸北野のおしゃれなホテルで開かれたイベントは、おれにとって苦い思い出でしかなかったけれど、たしか、達也は同い年の女の子と連絡先を交換することができたと言っていた――そうだったのか。

「おめでとう」

「ありがとう」

 ほんとうにおめでとう。おれの分も幸せになってくれと、あのときは本気で思ったっけ。




 おれとCBRは、夜の気配が残る湾岸線を尼崎から西宮、芦屋と駆け抜けて、神戸ハーバーハイウェイを駆け上がった。摩耶埠頭に差し掛かると、ようやく顔を見せた朝日が広大な神戸港の全景を照らしはじめた。

 海べりに兵庫県立美術館が見えてきた。

 街コンで女の子と知り合えたのは、達也だけじゃなかった。じつはおれだってそうだ。連絡先を交換することのできた6つも年下の彼女は可愛くっておれは舞い上がってしまった。自覚はなかったけれどいろいろとおかしかったのだろう、やらかしたのだろうと思う。何度目かのデートでやってきた県立美術館のレストランで、もう連絡しないでと言われた。

「え。どうして」

「……」

 そう訊いたおれこそ野暮の骨頂というものだろう。それっきり、彼女と連絡をとることはできなくなった。

 クッとアクセルを捻ると、そんな思い出も風と一緒に吹き飛ばせてしまう。オートバイは孤独な男の味方だ。あのあと、おれがひとり泣いてたなんてことは、親友の達也もおれの家族も知らない。知っているのはただ、このCBRだけだ。




 三宮で阪神高速神戸線に侵入すると、西を目指してスピードを上げる。目的地は神戸じゃない。もっと西。姫路だ。「6時半に姫路城で」おいおい。そりゃよそ者のおれには分かりやすい目標だけれど、ちょっと時刻が早過ぎやしないか。

 長田を過ぎた。須磨も通った。阪神高速神戸線から接続する第二神明道路の交通量はまだ多くない。時間は予定通りだけれど、飛ばせるところまで飛ばして時間を稼ごう。姫路が今日のゴールってわけじゃないんだ。時間に余裕があって困ることはない。

 丘の向こうから明石海峡大橋の巨大な主塔が姿を現した。海抜300メートル。世界一の吊り橋は朝焼けを受けてオレンジ色に輝いている。今日、この橋を渡ることはないが、これを渡った対岸の淡路島には淡路サービスエリアがあり、明石海峡大橋の全景が眺められる。




「おいおい、どうしたんだよ」

 結婚してまもなく、達也がクルマを乗り換えた。淡路サービスエリアにそのクルマで現れた友人におれは絶句した。

「ミニバンになってるじゃねーか」

 達也の愛車は、日本が世界に誇るスポーツクーペ、日産・フェレディZだ……った。しかし、その日サービスエリアに現れたクルマは、流麗なクーペボディを持ったスポーツカーではなく、もっさりとしたミニバンタイプのファミリーカー、ホンダ・オデッセイだったのだ。

「こっちの方が便利なんだよ」

 ミニバンが便利なことは分かっている。でも、これまではあえてのZだったはずじゃないか。そして、奥さんと楽しめないからといって、ツーリングの相棒、カワサキ・ニンジャも売り払ってしまったと打ち明けられた。

 人一倍、モノに凝る性格で、自分の感性と思い込みに正直だったやつが家族を優先してクルマを選んだ。おれはじぶんの相棒CBR1100XXに視線を落とした。そういうことか――。

 親友が結婚したのは、めでたいことだ。心底おめでとうと言ってあげたい。しかし、十数年来の遊び友達が遠くに行ってしまったと寂しく感じないと言ったら嘘になる。達也とは一緒にツーリングへ行くことはなくなった。その日からしばらく、おれはふさぎ込んだ。




 明石の街を過ぎて道は西へと続く。ようやく日が昇りはじめて、周囲が明るくなってきた。快調にCBRを飛ばすおれの前方に、きらきらと輝く大きな川が現れた。播州平野東部を南北に貫いて流れる加古川である。

 そういや、この前達也と会ったのは、加古川の花火大会だったっけ。あいつ、奥さん佳子さんと、奥さんに似てかわいい娘の梨花ちゃんと一緒だったな。




「ユースケ!」

 可愛らしい浴衣に草履姿の小さな女の子が駆け寄ってきて、がっしとおれの腰に腕を回した。

「梨花ちゃん」

「梨花。悠介さんが困るでしょ。離れなさい」

「いえ、いいんですよ」

 ほんとに構わない。困っていないから。むしろ40過ぎの独身男が、女性に抱きしめてもらえるなんて機会、そうあるものではない。それが5歳の女児としても。

「おー、梨花にだけモテモテだな」

「うるせ。そんなこと言ってると、渡さないからな」

「あたしもユースケといるー」

 こんなことを言っていた梨花ちゃんだけれど、お父さんのことが大好きで、花火が大きな音を立てて、夜空にさまざまな光跡を描きはじめると、達也の腕のなかにすっぽり隠れてしまった。

 達也たちは仲がいい。頼りになる旦那さん、優しい奥さん、可愛い娘さん。絵に描いたような幸せ家族だ。花火に浮かび上がる達也たち家族の顔を横目で見てそう思った。

 ――おれは手に入れられなかったけど。

 達也はときどき、こうやって家族イベントにおれを呼んでくれる。幸せのおこぼれに預かれるだけで十分。こうしているおれも――幸せだ。




 加古川バイパスを走り抜けると道は姫路バイパスに接続し、いよいよおれたちは達也との待ち合わせ場所である姫路城に近づいてきた。

 新型コロナウイルス感染症の流行がはじまってずいぶん経つ。感染者が減ってきて、久しぶりにツーリングへ出かけようとSNSで連絡をとった。達也と会ったのは一昨年夏、花火大会だから、会うのは2年ぶりだ。

 バイパスを下りてJRの高架をくぐると、前方に白亜の要塞が現れた。はじめて見る姫路城は、秋晴れの空を背景に輝いてみえた。なるほど絵になる。天に聳える真っ白な大天守と脇に小天守並ぶ様子は華麗とすら思える。

 JR姫路駅から城へ、まっすぐ伸びる大手前通りをおれとCBRがゆく。

 今日は達也たち家族と待ち合わせて、岡山・蒜山高原を抜けて大山へ紅葉狩りに出かける計画だ。楽しみだけれどタフな一日になりそうだ。姫路城の大手門脇、城の真ん前の濠端に達也のオデッセイが停まっている。あいかわらずのミニバンだ、スライドドアが開いて、2年前より背が高くなった梨花ちゃんが手を振りながら飛び出してきた。達也の姿も見える。笑っている。ここは素敵なゴールだ。とても気分がいい。

 今日のおれはどこまでも走っていけそうだぞ――。

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