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啄木の質屋通い
日暮れとともに
石川啄木と妻の節子が
質草をもちこんだ
節子の
着物が入った行李であった
その入村質店はカフェとして
残っている
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1907年(明治40)5月
岩手の渋民村から
「石をもて追はるるごとく」
函館に啄木がやってきた
ほどなく母カツ、節子
幼子京子、妹光子を呼びよせ
一家5人は
函館山のふもと青柳町の裏長屋で
借家暮らしをはじめた
「家庭は賑はしくなりたれども…
六畳二間の家は狭し
天才は孤独を好む
予も亦自分一人の室なくては
物かく事も出来ぬなり」
日記『函館の夏』で
啄木はこうなげいている
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一文無しの啄木は
文芸同人の紹介で
商業会議所の臨時雇い
弥生小学校の代用教員
函館日日新聞の記者と職を転々
いずれも一家をささえる啄木には
乏しい給料で生活はきびしい
8月下旬 市内で出火
風にあおられまたたく間に
全市の三分の二が焼失
ただ 青柳町の自宅は
火災をまぬがれた
大火は
文芸同人・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)との
交わりなど
実りおおい132日の函館の生活に
終わりを告げたのだ
日記にこう別れを惜しんでいる
「一人も知る人なき地に来て
多くの友を得ぬ
多くの友を後にして
我今函館を去らむとするなり」
そのあと 啄木は札幌に
わずか14日間とどまり
小樽115日 釧路76日と漂泊
翌春 釧路をはなれ
函館にたちよった
文芸同人の仲間に
家族をあずけて
単身上京した
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啄木が質屋通いしたのは
青柳町で一家が
暮らしていたころの
8月初め
啄木が母を迎えに
対岸の下北半島野辺地に行く
旅費の工面であろう
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「函館で死にたい」と言っていた啄木は
質屋からほど近い立待岬の墓にねむっている
墓碑には「われ泣きぬれて蟹とたはむる」
この歌を詠んだ大森浜を眼下に見下ろす
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*2022.10.30 nippon.comに投稿したコラムを編集