鹿鳴館の華 大山捨松 Ⅰ
籠城戦で敗れ
会津藩はわずか三万石に減らされて
青森県下北半島に国替えとなった
会津は全藩が流罪になったと
司馬遼太郎は
『街道をゆくー北のまほろば』で語っている
山川さき8歳のときに
会津戦争は起こった
「官軍、城下侵入近し」の早鐘が
打ち鳴らされるなか
山川家の女性たちも鶴ヶ城へ走った
激しい砲撃のなか
負傷者の手当、炊き出し
弾薬づくり
消火に走りまわり
8才のさき(のちに大山捨松)も
手助けした
が、ひと月にわたった壮絶な籠城戦は
会津の降伏で終わった
1869年(明治2)
会津松平家は
最果ての地・下北に追いやられ
斗南藩三万石となった
ただ、米もとれず実質7千石であった
国家老の家柄である山川家の浩は
藩の総括責任者となった
刀を鍬に持ちかえるも
寒冷不毛の地で雑穀しかとれず
きびしい寒さと栄養失調で
死者や脱落者が相次いだ
飢餓の冬が終わった
1871年(明治4)春
浩は、幼いさきを津軽海峡の対岸
函館につてをたどり里子にだした
斗南の地獄のごとき生活でなく
人間らしい暮らしがある と
食うための人減らしでもあった
函館のにぎわいは
この世の別天地であった
幕末に開港場となり
各国の船でにぎわい
貿易商、領事、宣教師が
街なかを行き交っている
さきは
日本で最初のロシア正教会信徒
パウェル澤辺琢磨のもとに預けられ
さらに
フランス人家庭のもとで
半年あまりを過ごした
(Ⅱにつづく)