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港町・函館 今と昔

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天然の良港をいだく函館。 高田屋嘉兵衛の千石船が出入りし、ペリー提督が水と薪をもとめて開港をせまり、戊辰戦争では榎本武揚の艦隊が官軍と交戦するなど歴史を刻んできた。 開港160年…
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カムチャッカの男

真珠湾攻撃の翌年 1942年(昭和17) ロシアの男が家族をつれ 函館をひっそりと去って 上海へ脱出した   その男は アルフレッド・デンビー スコットランド人を父に長崎の日本人女性を母に 樺太で生れ英国の大学で学んだ   樺太でいとなむ先代の漁場をひきついだデンビーは 沿海州のウラジオストクに本拠をおき 函館のデンビー商会を足場に カムチャッカでのサケマス缶詰の製造に乗りだした 資金は、日露戦争で失った南樺太の漁業権の補償を 日本から得た巨額の金であった   ときは

函館生れの女優・高峰秀子の実家はそば屋料亭 母の死後 養母は東京に連れて行き 秀子は松竹映画の子役に出演 抜群の記憶力で台本を丸暗記しデビュー 母は秀子の稼ぎを独り占め 母との戦いに疲れパリへ逃避行 『二十四の瞳』に出演し助監督・松山善三と結婚 幸せと安らぎを手にいれた

高田屋嘉兵衛

小学生のころ 先生から物さしでゴツンと 頭をたたかれた こんなえらい先祖をもつのに何だ いたずらっ子のおまえは!  戦前の修身の教科書に 高田屋嘉兵衛が登場したのだ 名高い初代をもつのも迷惑さ と 高田屋の七代目高田嘉七さんは 笑い飛ばした 240年まえ 淡路国にうまれ 水主 やとわれ船頭から身をおこして 一代で天下の豪商となった嘉兵衛は いまでも通用する先進的といえる 経営哲学の持ち主であった 持ち船の難破は 一隻もなかったほどの安全運航 保険がないころ 船が沈め

 谷川俊太郎

谷川俊太郎の詩『ことばあそびうた』 このなかに 「いるか」の詩がある 谷川俊太郎がこの「いるか」の詩を詠い 息子のピアニスト谷川賢作がひきいる DIVAがサウンドを奏でた 25年前におこなわれた 函館のFMいるか開局7周年のイベント 詩の朗読とサウンドがひびきあった まさにFM「いるか」の開局記念に ぴったりの夜であった 2024.11        現代詩におおきな足跡をのこした       谷川俊太郎さんがこの世を去った         残念のひとこと   ご冥

坊っちゃん

「西野君、立ってください」  いきなり先生に名前を呼ばれ バネがはじかれたごとく直立不動 「漢詩の出だしを読んでごらん」    ハイ! と元気に返事するも  あとが続かない  頭に血がのぼって   たった今  教わった読み方が吹っとんだのだ 函館中部高校(函中)に入学早々 漢文の授業で立ち往生したありさまは 60年あまり経った今でも生々しく覚えている おやじにさっそく この一件を話すと そくざに 「俺もおそわった板垣先生で あだ名はジャクだよ」 と 漢文を読むとき 返

ブルゴーニュの名門がやって来た

良いワインをつくるため 函館に進出する と 熱く語った エチエンヌ・ド・モンティーユさん フランス革命前から ブルゴーニュ・ヴォルネイに 居をかまえる老舗の当主である じつは、僕は、彼のつくるワインのファン     長い年月をかさね   熟成して飲みごろになり   その芳醇で繊細な仕上がりは   優雅そのもの 彼と日本のワインとの出会いは ニセコに家族とスキー旅行にきたとき 北海道のワインを味わって その大きな可能性を感じたという それ以来 地元のブルゴーニュ大学の協

啄木の質屋通い

日暮れとともに 石川啄木と妻の節子が 質草をもちこんだ 節子の 着物が入った行李であった その入村質店はカフェとして 残っている 1907年(明治40)5月 岩手の渋民村から 「石をもて追はるるごとく」 函館に啄木がやってきた ほどなく母カツ、節子 幼子京子、妹光子を呼びよせ 一家5人は 函館山のふもと青柳町の裏長屋で 借家暮らしをはじめた  「家庭は賑はしくなりたれども…   六畳二間の家は狭し   天才は孤独を好む   予も亦自分一人の室なくては   物かく事も

鹿鳴館の華 大山捨松 Ⅱ

北海道開拓使次官・黒田清隆は 欧米を視察し 女子教育の必要を痛感し 幼い女子の官費留学生を募集した 旧幕臣や賊軍の娘5人が 名乗りをあげ そのなかに山川さきの名があった のちに陸軍少将となった 斗南藩の兄・浩の計らいであった 1871年(明治4)秋 浩は函館に出向き アメリカで10年間 官費で学ぶことを 妹さきに告げた さきの理解を超えていたが 会津のしつけに否はないと 津軽海峡をわたり 対岸の斗南に住む母に 別れのあいさつに向かった 動転した母は 幼名さきを 「

鹿鳴館の華 大山捨松 Ⅰ

籠城戦で敗れ 会津藩はわずか三万石に減らされて 青森県下北半島に国替えとなった 会津は全藩が流罪になったと 司馬遼太郎は 『街道をゆくー北のまほろば』で語っている 山川さき8歳のときに 会津戦争は起こった 「官軍、城下侵入近し」の早鐘が 打ち鳴らされるなか 山川家の女性たちも鶴ヶ城へ走った 激しい砲撃のなか 負傷者の手当、炊き出し 弾薬づくり 消火に走りまわり 8才のさき(のちに大山捨松)も 手助けした が、ひと月にわたった壮絶な籠城戦は 会津の降伏で終わった 1

ペリー艦隊の弔砲

笛と太鼓の音が 箱館の街なかにひびきわたった 170年まえの嘉永7年 1854年のことであった ペリーが箱館に来航したとき 水兵2人が、この異郷の地で病死した   従軍牧師を先頭に葬列が組まれ 剣をおびた士官が左右をあゆむ それにつき従い 兵たちが横笛を吹き ドラムをたたき 黒い布でおおわれた棺をかつぎ おごそかに行進 土地の群衆も頭を垂れてつきそう このときひびいたのが ヘンデルの葬送行進曲であった 葬られたのは、函館山のふもとの高台 これが外国人墓地の始まり

箱館ハイカラ號

のどかにガタンゴトンと乗客をのせた ハイカラ號が 基坂下をかけぬけていった 明治時代の路面電車を復元した 「箱館ハイカラ號」 1910(明治43)年製 千葉・成田で運行していたが 1918年に函館にやってきた 一時は除雪に使われていたが レトロに復元され 30年ほどまえに客車となった 赤と白のクラシックなデザインが 人気だ 昔の写真が手もとにある 幕末、開港とともに開いた運上所を 明治になって税関と改めた その初代税関のまえを 移動する小型の鉄道 馬が曳いている

フイルムLeica奮闘記

新しいフィルムカメラPENTAX17(イチナナ)が新発売された 注文が殺到し受注停止とか デジカメの世にアナグロとは!?   PENTAX17に刺激され むかし愛用したライカLeicaMPで撮影しようと 先ずフイルム装填でつまずいた フイルム先端のベロが上手く入らない YouTubeを見て装填の第一関門通過 さらにピント合わせ=レンジファインダーの二重像合致 歳とって視力が弱くなりなかなかピントが合わない それやこれや とにかく街なかで夕方から夜にかけてスナップ 36枚撮

赤い靴の女の子

赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった 今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう (抜粋)                    作詞 野口雨情 大正11年 明治38年 わずか3歳のきみは、母かよと別れ 異人さんにつれられ船にのり函館をはなれた 旧桟橋(東浜桟橋)ちかくに 赤い靴の少女像「きみちゃんの像」がある   母

島崎藤村の函館

1904年(明治37) 島崎藤村は、日本とロシアが開戦した 日露戦争のさなか ロシアの軍艦が出没する そうぜんたる津軽海峡をわたり 函館の旧桟橋にたどり着いた 港ちかくの妻・冬子の実家をたずね 小説『破戒』の自費出版費用を願った 「要るといふ時に電報を一つ打ってよこせ 金は直ぐ送ろう」 (島崎藤村『突貫』) 網の問屋を切りまわしていた義父・秦慶治は 二つ返事で金四百円を用立てたのだ ちなみに今では300万円ほどの大金を手にして 妻の実家で1週間ほどすごしている こう