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港町・函館 今と昔

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天然の良港をいだく函館。 高田屋嘉兵衛の千石船が出入りし、ペリー提督が水と薪をもとめて開港をせまり、戊辰戦争では榎本武揚の艦隊が官軍と交戦するなど歴史を刻んできた。 開港160年…
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記事一覧

鹿鳴館の華 大山捨松 Ⅰ

籠城戦で敗れ 会津藩はわずか三万石に減らされて 青森県下北半島に国替えとなった 会津は全藩が流罪になったと 司馬遼太郎は 『街道をゆくー北のまほろば』で語っている 山川さき8歳のときに 会津戦争は起こった 「官軍、城下侵入近し」の早鐘が 打ち鳴らされるなか 山川家の女性たちも鶴ヶ城へ走った 激しい砲撃のなか 負傷者の手当、炊き出し 弾薬づくり 消火に走りまわり 8才のさき(のちに大山捨松)も 手助けした が、ひと月にわたった壮絶な籠城戦は 会津の降伏で終わった 1

ペリー艦隊の弔砲

笛と太鼓の音が 箱館の街なかにひびきわたった 170年まえの嘉永7年 1854年のことであった ペリーが箱館に来航したとき 水兵2人が、この異郷の地で病死した   従軍牧師を先頭に葬列が組まれ 剣をおびた士官が左右をあゆむ それにつき従い 兵たちが横笛を吹き ドラムをたたき 黒い布でおおわれた棺をかつぎ おごそかに行進 土地の群衆も頭を垂れてつきそう このときひびいたのが ヘンデルの葬送行進曲であった 葬られたのは、函館山のふもとの高台 これが外国人墓地の始まり

箱館ハイカラ號

のどかにガタンゴトンと乗客をのせた ハイカラ號が 基坂下をかけぬけていった 明治時代の路面電車を復元した 「箱館ハイカラ號」 1910(明治43)年製 千葉・成田で運行していたが 1918年に函館にやってきた 一時は除雪に使われていたが レトロに復元され 30年ほどまえに客車となった 赤と白のクラシックなデザインが 人気だ 昔の写真が手もとにある 幕末、開港とともに開いた運上所を 明治になって税関と改めた その初代税関のまえを 移動する小型の鉄道 馬が曳いている

フイルムLeica奮闘記

新しいフィルムカメラPENTAX17(イチナナ)が新発売された 注文が殺到し受注停止とか デジカメの世にアナグロとは!?   PENTAX17に刺激され むかし愛用したライカLeicaMPで撮影しようと 先ずフイルム装填でつまずいた フイルム先端のベロが上手く入らない YouTubeを見て装填の第一関門通過 さらにピント合わせ=レンジファインダーの二重像合致 歳とって視力が弱くなりなかなかピントが合わない それやこれや とにかく街なかで夕方から夜にかけてスナップ 36枚撮

赤い靴の女の子

赤い靴(くつ) はいてた 女の子 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった 横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった 今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう (抜粋)                    作詞 野口雨情 大正11年 明治38年 わずか3歳のきみは、母かよと別れ 異人さんにつれられ船にのり函館をはなれた 旧桟橋(東浜桟橋)ちかくに 赤い靴の少女像「きみちゃんの像」がある   母

島崎藤村の函館

1904年(明治37) 島崎藤村は、日本とロシアが開戦した 日露戦争のさなか ロシアの軍艦が出没する そうぜんたる津軽海峡をわたり 函館の旧桟橋にたどり着いた 港ちかくの妻・冬子の実家をたずね 小説『破戒』の自費出版費用を願った 「要るといふ時に電報を一つ打ってよこせ 金は直ぐ送ろう」 (島崎藤村『突貫』) 網の問屋を切りまわしていた義父・秦慶治は 二つ返事で金四百円を用立てたのだ ちなみに今では300万円ほどの大金を手にして 妻の実家で1週間ほどすごしている こう

毎朝、夫婦でそばを打つ 「蕎麦蔵」 会津でそば打ち修業 その会津産のそば粉を使った 手打十割蕎麦 十割なのに なめらかな艶とこしがあって 美味い 函館のそば屋で一番人気 30枚限定 直ぐ売り切れる 僕のお気に入りは、 野菜天蕎麦 つきたて餅のあんころ これで大満足!

ラストサムライ 中島三郎助

幕末、黒船が浦賀沖に突如現われて右往左往する 幕府と江戸の町を皮肉った有名な狂歌がある 「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」 上喜撰(じょうきせん)とは 宇治の銘茶で蒸気船(黒船)にひっかけ 四杯とは 黒船四隻でお茶を飲みすぎると夜も眠れない、と この黒船に日本人として真っ先に乗りこんだのが 浦賀奉行の役人 中島三郎助 米に幕府高官としか面会しないといわれ とっさに「浦賀の副奉行」と偽った 応接をかさね艦内の大砲などの装備にも 目をこらし米から警戒さ

現存する唯一の関帝廟

函館山のふもとには 明治のころに建てられた 煉瓦造りの建物がある 金森赤レンガ倉庫、旧ロシア領事館 これらは洋式であるが 函館中華会館(現在・閉館)は 赤レンガでぐるりと囲まれ中を うかがうことができない 国内にただひとつのこる 清朝様式の建築物 明治43年、函館在住の華僑により 三国志の英雄・関羽をまつる関帝廟 同郷の集会所として建てられた 釘一本使わない清朝様式の建築で 大工、彫刻師、漆工を中国からまねき 祭壇、什器なども本国からとりよせ 工期に3年かけた 内部は

波乱万丈 唐牛健太郎

坊主頭のまま大学に入った1960年 安保闘争のまっただ中であった 大学構内は安保反対の立てカンバンが林立 連日デモ隊が国会をとりまき、岸を倒せ!  このときの全学連委員長は 函館生まれの唐牛健太郎であった シュプレヒコールうずまくなかに僕もいた   時はうつり 函館・大門の酒場で赤銅色に日焼けした彼と カウンターに連なったことがある そのころオホーツクの紋別で鮭漁師となり 母親のすむ函館にいっとき里帰りして 高校時代の友人と会っていたのだ 「安保の遺産で食っているのさ

「風花日和」

古い蔵の二階にあがってびっくり 屋根うらの棟木に墨でくろぐろと 「 明治9年4月13日 第13代 常野與兵衛 建造」 147年まえに建てられた木造二階建て土蔵造り この土蔵は、ペリーが箱館に上陸した22年後に 松前藩と会談を行った場所近くに建てられた 建て主の常野與兵衛は 大町にひらいた茶舗を拠点に 茶業、書店などをひろく営んでいた さらに大火事が頻発する この地で防災に力をそそぎ 函館公園の開設、さらにコレラ予防に 上水道の計画をすすめるなど そのころの街の顔役であ

啄木の片想い

石川啄木は ふる里の岩手・渋民で日本一の代用教員となる と教育に情熱を燃やしていた だが、校長排斥ストライキの先頭に立って 代用教員をたった一年で首になる        石をもて追はるるごとく     ふるさとを出でしかなしみ        消ゆる時なし 1907(明治40)年 啄木21歳の春5月、函館にわたった 詩集『あこがれ』で名が出始めた啄木を あたたかく迎えいれた 文学同人・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)のつてで 彌生尋常小学校の代用教員となった     わずか3ヶ月

年賀

皆さん  明けましておめでとうございます アップルパイを焼こうとして大失敗して 銘菓タルトタタンがフランスで誕生            失敗は成功のもと  今年はこの言葉に奮起!

〆パフェ

皆さん  今年もお世話になりました 来年もよき年でありますように