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自主性の履き違え|叱らない教育は子供を救うのか

 先日、どこの記事だったのかは忘れてしまったのだが、海外の子育て、特に叱り方の記事を読んだ。それが言うところによると、海外の親は叱るときに声を荒げたり、もしくは子供を優しく諭すようにはせず、冷たく低い声で「○○をやめなさい」というように言うらしい。そうすると子供は泣き喚くでもわがままを言うでもなく、ぴたりと言うことをきいていたが、傍目の日本人からすると少し背筋が凍った、ということだ。

 無論すべての親御さんがこのようにしているわけではないが、少なくとも日本にこのような叱り方をする親はそこまで多くないだろうし、実際私がヨーロッパの街を見ていても駄々をこねる子供と大声で泣き喚く子供が日本に比べ非常に少なく感じるのも気のせいではないはずだ。
 無論、そのご家庭ごとの「教育方針」というものもあるだろうし、何が善で何が悪かという話をこれにするつもりはない。ただ、この叱り方、ひいては教育の仕方に近年登場した価値観たちが大きく影響を与えているという前提をおくと日本のそれらはヨーロッパのものとは少し異なっているのだと思う。良い言い方をすれば日本に最適化された、悪い言い方をすれば国際社会が求めている「それら」よりはるかに不器用なものとなっているのだと思う。

 これは私のイメージだが、日本の最近の親御さんは人前で叱ることを極力避けているように感じる。最初は「だめだよ~」というように諭し、駄々をこねるにつれて互いにヒートアップしていく…というような光景が時々目に入る。人前で声を荒げたくない、というのは周りの目が大きく関係しているのだとすれば納得がいく。大きな声で叱ったときに周りが少しでも過剰だと感じてしまったなら、虐待と言われてしまう、そんな何とも言えぬ監視網があるように見えるのは私だけではないはずだ。

 また海外のそれは理想であるところの、「子供の自主性を重んじて対等に親子ともども成長していく仲睦まじい家族像」にも反する。しかし、この理想像こそが海外のものと趣旨が違うものになっているのではないだろうか。
 子供の自主性を重んじるということは彼らが望んだこと、例えば学校で知った知識をさらに深めたいであるとか、○○という習い事をしてみたい、ということに対してその可能性を消してしまわないようにサポートすること、またそういった興味が湧くような体験を与えることであると私は思っている。それは彼らが強制されたと微塵も感じない自由奔放な生活を保障するわけではないし、子供たちの行動をすべて許せという暴論とは似ても似つかない。むしろそういった誤った方向に興味関心が向かないように大人としてコントロールすることも立派な自主性を重んじる教育の一環たりえるのだ。

 また、日本の叱り方は場合によっては子供に「弱みに付け込ませる」隙を与えてしまいかねない。私は子供というものは一定周りが見えているものであるし、学習能力においては大人たちをはるかに凌駕していると考えている。おうちではいっぱい叱られるしおとうさんおかあさんの迷惑にならないようにしなければいけないのに、一度お外にでるとおとうさんおかあさんはあまり強く叱ってこない、ということに気づいてしまったが最後、外では駄々をこね、わがままになるという親にとっては一番世間体に響く形の結果を見せてくれる。
 加えて、彼らが少し大きくなると今度はソーシャルメディアがそれを「自主性」や「多様性」という形で擁護しているように見せてくるのだ。当然のようにこれらの単語は子供たちの身勝手を許すために生まれた言葉ではない。しかし表現によっては彼らの一挙手一投足を認め、許す必要があり、少しでも叱るようなそぶりを親がしたならばそれは虐待だ侵害だと被害者になれる社会がそこにはあるのだ。

 想像に難しくないが、こんなふうに育った場合その人はお世辞にもいい人間とは言えないのではないだろうか。自分の思い通りになることが当たり前の世界にいたがために、辛抱や我慢ができない、感情と欲求に支配されているといえば言い過ぎかもしれないが、そういう人が周りにゼロではないと、私は感じてしまっている。
 何を飛躍した話を、と思われても仕方のないのではあるが、一つ、これに関連した話を取り上げようと思う。『Southland』というアメリカのドラマシリーズでの一幕なのだが、主人公らしい警察官のもとに虐待があったという通報が届く。しかし現場の家から出てきた母親は通報などしていないと話していたところ、子供自身が通報したという。彼は母親にぶたれたというが、警察官が話を聞くと彼自身が登校を拒否したためだった。友達から聞いたという子供は「虐待」という部分を強調した態度をとるが、警察官はそんな子供に対し、「お前は間違ったことを友達に教えてもらった」「次母親を通報するようなことがあれば俺がお前を殴ってやるからな」というふうに厳しく注意する―――というものだ。
 この作品の場合母親の教育がというようなことは描かれておらず、ただ現代の子供の被害者意識や都合の良い解釈の正当化に焦点が当てられているが、このように自主性の意味を履き違えるきっかけになりうるのはその教育そのものである可能性がある。子供が間違ったことをしたとき叱れるのは大人たちだ。時にはその警察官のように、厳しく叱れるような大人になりたいものである。

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