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9.思いやり

「優しくて、思いやりのある人間に育ってほしい。」
今から20年以上前に最初の子供が生まれた時に、まず思いついたのはこの言葉でした。

「人のことを思いやって、相手の身になって行動しなさい。」というのは、多くの親が当たり前のように子に躾けますし、自らもそうありたいと律する訳ですが、言うは易く行うは難し。実際は多くの人が口で言うばかりで、行動では出来ていないと思います。
寧ろ、行動に表すことがとても難しいからこそ、先人たちの教えとして、長らく語り継がれてきているのだと私は考えます。それほどまでに、人を思いやって、相手の身になって考え、相手に利するように行動し、それを当たり前のこととして繰り返すことが、究極的には自らの幸福に繋がると信じるのは、とても難しいことだと常々痛感します。
自分を消して、人のために尽くすこと。それが究極的には自分の幸福に繋がると言うことに、気づくこと。私もまだまだ未熟者で、とてもその境地に至ることは出来ません。とても難しいです。

元来、我々日本人の幸福感は、無常感と深く結びついています。南博氏の「日本人の心理」では、茶道で説かれる「一期一会」を、以下のように表現しています。
「茶道では、茶会を『一期一会』と言って、一回ごとの茶会に席を同じくする人達は、それを一生に一度の機会として、再会することはないと思う気持ちで振る舞わなければならない。そこに、茶会の無常感があると言うのである。(中略)不幸への心理的免疫であるこの無常感に対して、積極的に、人生の無常から、かえって思いがけない幸福を予期するという態度も出てくる。この場合には、無常感が、幸福の否定に繋がるのではなく、不幸の否定に導くのである。」
このように、我々の考える幸福というものは、「もののあはれ」「一期一会」に代表されるような、生きることの厳しさと理不尽な人間の欲望に対する無常感から来るものであり、だからこそ今を、この出会いを大切に、「おもてなし」「振る舞う」ように導かれ、その先に幸福があるということです。

またその先には、紀元6世紀頃に日本に伝来した仏教の、「自利利他(円満)」の教えが見え隠れします。弘法大師が「自利利他」を初めて日本に持ち込んで、後に親鸞聖人が「自利利他円満」と解釈し日本全国の庶民に広めたものが、凡そ日本人の「思いやり」に近いと思います。
例えば今、私が人助けをしているとします。私が誰かのために人助けができるのは、自分が「助けたい」という気持ちを持てたからではありません。私が生きている中で様々な経験をし、人助けをするご縁を頂けたからです。今、私ができていることはすべて、自分の力ではなく、目にみえない「ご縁」から頂いた贈り物だ、ということです。これを親鸞聖人は「お育て」と説きました。

そして私一人だけが救われることを喜ぶのではなく、周りの人とも共に慶びあえるか?ここが重要です。誰しも自分の人生は何よりも大切ですが、その大切な人生=「いのち」を、みんなそれぞれに生きています。自分の利益(自利)だけを求めるのはでなく、他の人々に利益〈利他〉を与えてこそ一人前、ということです。

ちなみに仏教では自利利他の反語を、「我利我利」と言います。自分の利益だけを求め、追求し、他人を顧みない態度のことです。音読みで「ガリガリ」と読みます。そう、痩せ細った人間の姿を「ガリガリ」と呼ぶ語源です。東京国立博物館所蔵の国宝「餓鬼草紙」に代表される密教の絵巻物の中で、六道の中でも地獄の一歩手前である「餓鬼道」に棲まう、自らの欲望に溺れ死んだ人間の成れの果てである餓鬼共が、痩せ細ってガリガリに描写されているのは、そのためです。

「あの人、同期の中で一番に出世したよ」と聞いて、あなたは「仕事もロクに出来ないのにうまくやったな」ではなく「それは素晴らしい、努力が報われたね、おめでとう」と心から言えますか?
「あの人、去年結婚してすぐ妊娠したみたい」と聞いて、あなたは「まだ私には子どもどころか、結婚も出来ない。なんで私だけが」ではなく、「未来を創る子どもたちは私たち皆の宝。素晴らしいことだ」と心から思えますか?
他人の不幸を我が事のように受け止め、共に悩み苦しみ、支える。そして他人のあらゆる慶事に「よかったね」と心から祝福できたとき、私ははじめて、思いやりのある、魅力的な人間になれるのだと思います。日々、修身です。

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