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大人になりきれない「おとな」の顛末 - 『わたし達はおとな』を観て
映画『わたし達はおとな』を見てきた。簡単に感想を書こうと思う。
朝日新聞に掲載されていた主演の木竜麻生さんのインタビューを読み、これは観なきゃいけない映画だと直感した。
同時に観たくないとも思った。観ることが自分の首を絞めることにつながりかねないと、なんとなくそう思った。
なぜそう思うのかも正直よくわからないし、それでも観たのがなぜなのかもまたよくわからない。ただ結論としては、観ることで自分の苦しみが増したことは否めない。
いつものことだ。だから映画は観たくないんだ。
構成・演出
主人公の優実、直哉の視点を中心にストーリは進む。
妊娠の兆候である悪阻に苦しむシーンから始まり、大きくは2つの物語、二人が徐々にすれ違っていく様と、二人の出会いから付き合い同棲に至るまでがいったりきたりで描かれていく。
話が進めば進むほど、過去のシーンの台詞の意味が分かっていく。ふたりの歩いてきた道のりが鮮明になっていく、徐々に物語に立体感が増していく。
台詞も脚本に書いてあるとは思えないほど自然で、ふたりが同時に喋るとか、逆に黙ったままの深刻な間もある。
あいつが誰でこいつがどんなやつでという説明的な台詞もない。時系列が行ったり来たりするので死んだ人があとで生きて台詞を言ったりもする。映画ってこういうもんだったなと、最近コナンばっかりみている僕にも思い出させられる。
余談だが、最近流行っている『映画を早送りで観る人たち』にこの「間」は受け入れられるんだろうかとぼんやりと考えた。ま、そもそも情報として摂取する映画でもないか。。
「おとな」
大学生のときに僕はずっと映画を観ていた。あの頃に比べれば僕ももう年を取りすぎた。
大学生という設定の人物が映画なりに出てくるたびに「若いな」、というより「ガキだな」と思う。
「わたし、こういうところで処女を捨てたい」
声がでかいよ、と友人にツッコまれるほどの大声で言う台詞が耳に突き刺さる。大学生の女4人、リゾート地で滑稽なほど大騒ぎ。
砂浜で4人、花火に興じて大騒ぎする様はむしろ青春そのもので、(それが良いかはおいておいて)大人の姿とはかけ離れている。
でも自分たちは「おとな」なのだという自意識もある。近くのテーブルで酒を一気飲みしている集団を馬鹿にして根拠のない自意識を守る。
父親の言う通り、自分のことさえできてないのに。
すれ違いとエゴ
男女に限らず人と人とのすれ違いはしょっちゅう生じる。そしていつどこから生じるのか、そんなのわからない。
彼らにはきっかけがあった、ように見える。妊娠という大きなきっかけが。
でも実際のところどうだろう?本当にそれがきっかけなんだろうか。
エゴを出して行動する誰かを最低だと切り捨てるのは簡単だ。
でも冷静に考えてみれば、自分のエゴを振りかざしてはいけないわけでもない。恋愛が成就すること、結婚をすることや子供を育てることだけがお互いにとっての幸福でもない。
そして、誰が良いとか誰が悪いとかそんな単純な話でもない。
結局、はじまったと思った時にはすべて既に終わっている。人生、いつもそうなんだ。
おわりに
久々に夜が眠れなくなりそうな映画を観た。
この時代、比喩ではなくいつでも観たいと思った時に適当な量のお金を払えば映画なんていつでも観れる。
映画館に行く必要さえない。手元にスマホがあればそれで観れる。自分が気持ち良くなれるコンテンツなんて、他にいくらでもある。
それでも、ついつい僕は映画館に足を運んでしまう。「映画」を観るために。
観終わるといつもそうなんだ。食べ慣れない外国の料理を食べた時のよう、濃く残る後味や舌先の痺れのようなものがどこか消えなくて。
この感覚が大嫌いで、でもこのために映画を観てる。
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