夏目漱石 夢十夜「第五夜」 全5回③
さあ、全5回の真ん中まで来ました。張り切っていきましょう!
③潔い死とやり残したこと/捕らわれている者と駆ける者
死を選ぶけどもやり残したことがあるから少し待ってくれ。
この展開、太宰治の『走れメロス』でも使われています。
▼走れメロス▼
暴君ディオニスを殺そうと城に乗り込み捕縛されたメロスは妹の結婚式を挙げるために三日間の猶予をくれと申し出ます。親友のセリヌンティウスを人質として。
「少しずつ沈んでゆく太陽の、10倍も速く走った」という表現は非常に印象的です。
実は第五夜もこのような名誉の死と心残り/捕らわれている者と駆ける者という構造になっているということに僕は気付きました。
簡単にまとめると次のようになります。
名誉の死:絶対に屈服しない 心残り:恋人に会いたい
捕らわれ:自分 駆ける:恋人
終わり方こそメロスはハッピーエンド、第五夜はバッドエンドで異なりますが、中身としては結構似通っています。
これらから分かるのは、第五夜は、古い体制を引き継いで潔い死は選ぶけど、どうせ死ぬならやりたいことやって死のうという合理主義的なものが交じり合っているということでしょう。
また、これはこじつけの結果論にはなりますが、現代の僕たちが読むと漱石自身が人間の苦悩やエゴイズム(の探求)に囚われ、作品にすることで辿り着こうとするも、辿り着けず終わる。という漱石の人生そのものを表す話として取ることもできると思いました。
④結局女は死んだのでは
本文を読み返していると一つ気付いたことがあります。
それは天探女が鳴き真似をしなくても結局女は落ちて死んだのでは?ということです。馬は前へつんのめって淵に落ちたのですから、直進していても同じ結果になったのではないかと思ったわけです。
漱石のことですから何か思惑があって天探女を登場させたはず。本章ではこのことについて考察していきたいと思います。
4-1.運命ではなく人為的だから
天探女が鶏の鳴き真似をしなかった場合、女は直進して淵へ落ちることとなりますがこれは不運な事故と言うほかなく、恨む相手は運命になります。
しかし鳴き真似で焦ったから死んだという表現にすることで憎悪の対象をすり替える且つ増幅することが出来るのです。
友人が病で死ぬのと事故に巻き込まれるのだったら、明らかに病より事故の相手を恨みますよね。それと同じことです。人間は誰かのせいに出来る事柄に対してはいくらでも強い感情を抱くことができます。
読者に天探女って腹立つと感じさせ、実はいなくても結局死んだということをすぐには分かりにくくしていると言う事が出来るかもしれません。
また、人為的な事柄はいくらでも恨めるというのは終章で書く「天探女は自分の敵である」という表現にも繋がる大事な表現です。
さあ第3回はこれで終わり。残すところあと2回となりました。
第4回、第5回も是非読んでみてください!
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Cal bear