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母の焼き芋の香りとカンコロの思い出


プロローグ

薩摩芋の一番うまい食べ方は、焼き芋ではないでしょうか。
九里四里くりよりうまい十三里といって、江戸の昔から珍重されたようです。

今では、アルミホイルに包んで、オーブントースターで簡単に焼き芋が出来る。電子レンジでもホクホクの焼き芋が出来る。



かつて、焼き芋となると決まって登場するのが、くどであった。

1944年、祖父母はすでに亡く、「とみ爺の家」と呼ばれる空き家だけが残っていた。その祖父母地である椿の里に疎開した。

そこの土間にはくどが設えてあった。
母は、これを「おくどさん」と呼んで、毎日拝みながら煮炊きに使った。
食事が出来上がると、熱い残り火を「おくどさん」の焚口にかき出した。
寒さが増すと、その灰の上に、頃合の大きさの薩摩芋を3個ばかり並べた。そして、上に小さなおきが混じった灰をたっぷり掛けた。
しばらくすると、芋の焼ける匂いが土間いっぱいに広がってくる。
ひとり1個の焼き芋である。熱々の蜜のたっぷりの芋に変身していた。

それは、当時の幸福な記憶のうちのひとつである。
今でも「芋〜、焼き芋〜〜」の触れ売りの声を聞くと、母の手に成るおくどさんの焼き芋を思い出す。


次はカンコロである

カンコロとは、今でいう「干し芋」である。
現在では、安納芋などの美味しい芋を、ゆでて干し、体裁のいい形にセットし、黄金色の全容を見せてパックされて販売されている。
安価な商品ではないが、私は、時々購入している。
軽くあぶって食べる。
幼少時に食べたカンコロより遙かに上品で甘い。
疎開先で食べに食べて、もう一生分食べたと、いう思いの芋であるが、懐かしく、つい手が出てしまう。


はじめてのカンコロ

父は、長崎市の造船所に勤務していた。どうも戦艦をつくる仕事に就いていたらしい。
らしい、というのは、父は終生、「戦艦の仕事をしていた」と話すことはなかったからである。
父の長兄も、私の夫も同じ造船所で働き、私の12歳離れた弟も学校を卒業すると、同じ造船所に入った。言わば、我が家は、造船所一家であった。
父は、家族の誰とも戦艦のことを語ることはなかった。
私は、父の晩酌の相手をすることが多かったが、酔っ払っても戦艦のことを語ることはなかった。
父は83歳の時、もう自宅に帰ることはないと、承知して病院に入院した。
私は、何度か見舞いに行き、ベッドサイドで、父から中国大陸での戦闘の模様を聞いた。
戦艦の話は出なかった。私から尋ねることもなかった。
父は、戦艦の話は封印して旅立った。
戦後、明らかになった諸事情で、父は戦艦武蔵に関わっていたと推察した。

戦艦武蔵の進水式の時、長崎の港に向かって建つ家という家は、カーテンを閉めるようにとお触れが出た。長崎港に浮かぶ戦艦を見てはならない、ということであろう。
進水式の後、戦艦は艤装のため長崎の港から出て行った。
「何か、太かもんバ、つくっとらす、らしか(何かしら、大きな船を作っているらしい)」と、市民は密かに噂した。

武蔵が長崎の港を出て行って、しばらくして、父に召集令状が来た。
1944年のことであった。
父は、私の母に、父祖の地・椿の里に家移りするように勧めて出征した。
夫婦の間でどのような話がなされたか知るよしもないが、
「戦艦武蔵を作っていた自分に招集令状が来た。日本の国は危うい」
という父の思いは、母にしっかり伝わったようだ。


移り住んだ祖父母の家は、住む人が絶えていた。
藁葺きの百姓屋と牛小屋、堆肥小屋、厠が、浜風に晒されたいた。
屋敷は荒れ放題で、下の小道沿いに植えられていただいだい、スモモ、梨、柿の木は、好き放題に伸びていた。
あちこちに散在する畑は手入れされないまま放置されていた。
田んぼはなかった。
母は、さっそく、2人の子供(6歳の私と4歳の妹)を連れて、畑に出向き、草をむしり、鍬で耕すことになった。

最初の年は、屋敷に近い畑に薩摩芋の苗を植えた。
8月、盆のお供え用に試し掘りをした。人さし指ほどの芋を仏壇に供えることが出来た。
実際に収穫したのは、10月に入ってからであったように記憶している。
薩摩芋は、ほどよく盛り上げたうねに、芋の苗を差し込みさえすれば、初心者でもそれなりの収穫が期待できる。
母は最初の年、カガリ*に4杯ばかりの薩摩芋を収穫することができた。
一家3人の、1年分の主食となるには足りない。
多分、転居した最初の年は、対価を払って、近くに住む親戚から、薩摩芋を分けて貰ったと思う。子供の知らないところで、母は、頭を下げて回り、食料を調達していたようだ。
続いて母は、麦を植えた。
椿の里の入り口にある広い畑を耕して、麦の種を蒔いた。
私は霜の朝、わら草履を履き、母に教えられて麦踏みをした。

*カガリ:農作物を入れる稲藁の縄で作った入れ物。頑丈な耳がついていていて、畑で収穫した芋を入れて運ぶ。




カンコロの作り方

収穫された薩摩芋は、すぐに加工されて貴重な保存食となる。
私の知っている基本的な加工法は2種類ある。
簡単な加工方法は、皮付きのままを輪切りにして、そのまま乾燥させる。
もう一つの加工方法は、少し厚めに輪切りにして茹でて、乾燥させるというやり方である。


まず、茹でないカンコロ

薩摩芋を収穫すると、土を洗い落とし、しばし乾燥させる。
次に、それを包丁で輪切りにする。
むしろに広げて軽く陽に当てる。
それを、背戸の干し櫓に移して広げる。
裏表を返しながら、数日間、潮風に当てる。
カラカラになったものをかますに入れて保存する。


もう一つの加工方法、茹でたカンコロ

これは、手順が複雑である。
まず、薩摩芋はやや厚く輪切りにする。
それを、大釜で茹でる。
土間の、おくどさんの出番である。
ここに大釜がドカンとのっている。
薩摩芋をゆでる日は、早朝からの大仕事である。
私は妹と2人で手伝った。
ただ騒いだだけで、邪魔だったかもしれない。
芋のゆで加減は難しい。
母は近くの親戚の家に加勢に行き、具体的な茹で具合を習い覚えたらしい。私の印象では、それは、「生ゆで状態」であった。
何故なら、茹で上がった芋をそのまま食べてはいけないと、母からきつく注意されたからである。
茹で上がった芋は、干しやぐらに拡げて干される。
櫓は三段になっていた。
妹と二人して、その一番下の段に茹でた薩摩芋を拡げるのを手伝った。
母は、次々に茹でた芋を、中段と上の段に運び上げて拡げていった。しばらくは湯気が立ち込めて、芋の香がひろがった。

何度か裏表を返して、万遍なく潮風を当てる。
次第に飴色になっていく。
ついに、白粉を吹いて少しそり返ってくる。
真っ白に粉が全体に付くと出来上りである。これがカンコロである。

母はこの茹でたカンコロをどのように保存したのか、
私の記憶は曖昧である。叺には入れなかった。
茹でないカンコロよりは幾らか丁寧な保存方法であったようだ。
茹たカンコロはそんなに長くは保存できない。
ドンゴロスという袋ではなかっただろうか。

芋飴

茹芋の手伝いをした後は芋飴いもあめがご褒美である。
大釜に残った茹で汁が「芋飴」となる。
ゆっくり煮詰めた後、麦芽を入れてトロリとさせたものである。
麦か、もやしの発芽したものだったらしいが、ばくがとしか覚えていない。
大釜の茹で汁は、ゆっくり加熱され、ねっとりとなっていく。
壺に八分目ほどの量の飴が納まった。
竹の箸2本を揃えて、先端にしっかり巻き付けた飴が、子供達に褒美として与えられた。
甘くおいしい。飴は茶色で、粘っこい。
子供の手で巻き取ることは難しい。
が、私は、頑張って2本目にチャレンジした。
出来るだけ大きく巻き取ることを覚えたものである。
欲張って余分に食べると後で胸やけがする。
母は「どっけが高い」と言い、一日一回ぐらいに制限した。


芋釜での保存方法

薩摩芋は、収穫後、生を芋釜いもがまに保存することがあった。
収穫に余裕があった場合のちょっと贅沢な保存法になる。

とみ爺の屋敷の下の小道沿いに、梅、梨、橙の木が大きく繁っていた。その木々の下の土を掘り下げて芋釜を作る。
そんなに深くは掘らなかった。
その底に藁を敷いて芋を並べ、その上に薄く藁を被せる。
2段か3段ぐらい芋を並べただろうか。
一番上の藁の上に、掘り出した土を少し戻し入れた。
さらに藁で作った円錐形の帽子を被せる。これが芋釜である。
微風がわら帽子を通して通い、橙の高木の枝葉が、強い日光と風雨を防いでくれる。
しかし、芋釜はよく保存出来て翌年の3月頃までである。
芋に傷みが来る前に、輪切りにしてゆでたカンコロにする。
冬切りカンコロ」と、言って珍重された。
甘みが増し芋の中は蜜状に変化している。
ふかしても美味しかった。

芋の蔓の煮物

田んぼのないとみ爺の家の暮らしは、主食は、長くカンコロであった。
薩摩芋の収穫後は、サイコロ状にカットした芋と少しの麦が入ったものが主食。次は、茹でたカンコロに少しの麦が入った物に変わる。
その後は、切って干したカンコロとなる。麦はほんの一握りしか入らない。
段々、まずいものになる。
私が祖父母の家に住んだ3年間の芋飯は、母の幼い時とそんなに変化はなかったようだ。
母が幼い時苦手とした干葉汁ひばじるは食卓に上ることはなかったが、味噌汁の中身の記憶は全くない。豆腐などはなかった。
幸せなことに、ひもじい思いはしたことがない。

薩摩芋のつながりで覚えているのは、芋の蔓の煮物である。
薩摩芋の葉を除き、茎を束にして軽く湯がく。
水につけてアクを取り、皮を剥いていく。
これを一口大に切って、極少量の椿油で炒める。
醤油と芋飴で味付けをする。いい箸休めになる。
ただ、皮むきを手伝うと指先が茶色に染まる。
長い芋の茎をたわめて、ゆっくり皮を剥くやり方はアッという間に上達した。

とみ爺の家の暮らしから50余年が経過して、北陸の地・石川県に移り住むことになった時のこと。その地で、この芋の蔓の煮物に出会った。
金沢市の近江町市場に商品として並んでいた。
鄙の質素な芋づるの煮物が、都の大きな市場で販売されているのを見て私は心底驚いた。そのとき、この芋の蔓の煮物のために、薩摩芋を栽培し、蔓と葉を茂らせ、収穫することがあると知った。
畝をなくして、芋の部分を太らせないようにすると、地上の蔓や葉は青々と栄えて這い回るそうだ。
芋の蔓の煮物は、贅沢ぜいたくな食べ物となっていた。


次は、母の里言葉、「ボサーマー」を取り上げます。
母は、この言葉を、東京の浅草の地で発したのです。

(田嶋のエッセイ)#14
「猿蓑 の 寄り道、迷い道」
第10章「カンコロ」

2024年7月20日
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
をお読みいただきましてありがとうございました。


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