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4章 エレベーターは5階まで⑷

その後も、磯口すすむは、スイデン夫妻に会えば、「妻恋し」を繰り返し訴えた
ある時は、妻が選んだというTシャツを着て、
「妻との思い出を着ています」と、涙ぐむこともあった。
磯口すすむの「妻恋し」は続いた。
「折々の法要をキチンと行い、残された人はしっかり生きて行くことが亡き人への供養になるのでは」と、イチョウは思う。
(どうしたものやら……)

磯口すすむは、その後も妻のことを語り続けた
いつまで彼の繰り言を聞くことになるのかと、イチョウは、時に鬱陶しく思うようになった。
スイデンも、磯口すすむと一緒になると、挨拶だけして、イチョウを残し、さっさとエレベーターへと急いだ。
スイデンは、磯口すすむの「妻恋し」に、まるっきり関心を示さなかった。

そうこうしている内に、磯口すすむが体調不良となった。
彼は、20年前に悪性腫瘍の疑いで左膝の関節の手術を受けていた。
そのため、補装具を付けて、常に杖を使っていた。痛み止めも服用していた。しかし、身体障害者ではない。
介護保険も使っていなかった。
モクレン館の岩田ケアマネの支援を受けて、介護保険の申請を進めることになったが、何故か手続きが上手く進まなかった。

イチョウは、磯口すすむの気力が低下していることに気付いた。
以前は、5階ロビーの生け花を見る度に、
「妻は、未生流を習っていました」と、亡き妻を語っていたが、いつしか、花の前を素通りするようになった。
「妻恋し」の話が消えてしまった。
イチョウが、
「おはようございます」と、声を掛けても、返事さえもしなくなった。(どういう気持ちの変化かしら?)イチョウは、変に思った。

磯口すすむは、
「身元引受人は甥がしている」と周囲には言っていた。
「病院への送り迎えは甥がしてくれる」とも口にしていたが、その甥御の姿を誰1人としてモクレン館で見かけることはなかった。
ある日、磯口すすむは、
「遺言書を作成しました。近く、公証人役場に託します」と、ボッソリとイチョウに告げた。
何故、そうするのかイチョウに理由を語ることはなかった。
磯口すすむは、イチョウに遺言書のことを告げてすぐ後に入院した。

イチョウが3階のミニ図書館に行くと、鴎イチロウが職員に付き添われて廊下を歩いていた。歩行器を使って3階の廊下を2回、周遊する運動が日課となっていた。
鴎イチロウは、
「磯口は入院したらしいね」と淋しそうに話しかけて来た。
モクレン館の職員は、磯口すすむの不在を、「検査入院」と説明した。
1ヶ月が経過しても検査入院を繰り返した。
鴎イチロウは、3階の居室へ移った後も、時々、磯口すすむの部屋を訪ねて来て、表札を眺め、入院が続いていることを確認していた。
3階に戻る途中で、イチョウの部屋をノックし、
「検査入院は長いなあ」と、話しかけた。

さらに、2ヶ月が過ぎた。
片口施設長が、4階食堂に集う人々に訃報を告げた。
「磯口すすむさんが亡くなられました」
新聞に訃報が載った。84歳であった。

磯口すすむの死が公表されてから、1ヶ月して、イチョウが3階へ行くと、鴎イチロウが食堂でテレビを見ていた。
イチョウが、
「こんにちは、お変わりありませんか」と話しかけると、
「磯口すすむは死んだらしいね」と、返して来た。
「鴎さん、いつ、知りました?」
(4階食堂に集まる人々にだけ、お知らせがあったはず……)
「たった今。さっき娘が差し入れを持って来てね、亡くなったと教えてくれた。内緒にしていたらしいな」
「新聞には、訃報が出ました」とイチョウ。
「いつ?」
「ひと月前です」
「奥さんの所にいったのか」
鴎イチロウはションボリしていた。

さらに、1ヶ月位してイチョウが3階に行くと、鴎イチロウが食堂でボンヤリとテレビを見ていた。
声をかけると(おう、あんたか)という反応があり、
「近いうちに下へ行く」と右手の人差し指を下方に向けた。
「下の方って、どこですか」
(まさか墓場?)
モタモタしたやり取りのあと、モクレン館より月の経費が少ない施設へ移るということが分った。
「山川病院の系列で……」
鴎イチロウは、移転先の名前が出てこない。
「万里の館?」 
「そうそう」
介護保険の更新で介護度が重くなり、自己負担額が増えることになった。家族がこの先の経費を心配して、費用の安い所を探した。
「いつ移るのですか」
「一週間後」
(急なこと!)

イチョウは、岩出ケアマネに頼んで、習字教室の作品を一枚、譲り受けた。鴎イチロウと署名は力強く揮毫きごうされていた。
「人は、ある時出逢い、ある時ひっそりと去って行く。
その出逢いは、少しの間、人々の記憶の中に残る。
しかし、束の間である。やがて消え去って行く」
とは、イチョウの思いである。


次の章では、モクレン館で開催される誕生日会の話である。
果たして、誕生日会は、めでたいのでしょうか。


(小説)笈の花かご #18
5章 モクレン館の誕生日⑴ 
へ続く




(小説)笈の花かご #17 4章 エレベーターは5階まで⑷
をお読みいただきましてありがとうございました
2023年10月21日#1 連載開始
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
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