【 小説 】「 春嵐 」 #6 ( 全文無料 )( 投げ銭スタイル )
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第5章 多川節子の休暇
船山産婦人科クリニックでは、5月、6月、10月、11月のお産が多い。
冷房の普及が十分でない時代のことである。
7月と8月はお産が少ない。
12月と1月も慌ただしい季節であるためか少ない。
寒い2月も敬遠されている。
女性達は学習して計画的に産むようになっていた。
7月20日過ぎ、雷鳴がとどろき長い梅雨が明けた。
「 多川さん、ずっと年休を取っていないし
この夏、しばらく休んだらどうだろう 」
船山院長が何気ない風をよそおって
節子に有給休暇の取得をすすめた。
3週間ぐらいなら、今のスタッフで何とかなるという。
外来の看護婦が立て続けに結婚退職を願い出た時
船山院長は大学の産婦人科の助産婦2人に声をかけた。
助産婦学校を卒業してまだ1年の経験しかなかったが
2人とも意外に早く仕事に慣れた。
節子の週毎の休みにも支障なくお産の業務をこなしていてくれていた。
少し長い休みであるが、2人がいれば、大丈夫であろうと節子は思った。
「 有給休暇、ありがとうございます 」
院長の表情からは何事か企んでいるとはまるで読み取れなかった。
節子は、離島巡りを計画した。
行き先は、東シナ海に浮かぶ五島列島である。
北端にある小値賀島に
看護学校の同級生が小学校の養護教諭として赴任している。
同窓会で、島の美しさと美味しい魚の話をして、食べにおいでと誘われた。小値賀島ヘは船を乗り継いで、幾つかの港に寄ってやっと辿り着く。
嵐に遭遇すると港に足止めとなる。
余裕を持った日程でないと出かけられない。
3週間の有給休暇は有り難い。またとない、いい機会である。
院長には、行き先と大まかな日程を伝え、節子はリュック1つで出発した。
長崎市の大波止から五島行きの船が出る。
最初の寄港地である福江までは約2時間かかる。
長崎の港を出ると外洋である。船は大きく揺れる。
そのまま東シナ海へと続く大海原となる。
大型の船であるがポンポン船である。
スタビライザーのない時代のことで、船は2時間のあいだ揺れに揺れる。
初めて乗船した人は “地獄タイ” といって
次回の乗船をためらうほどである。
節子の旅の第1日目、天候は晴れ、海は穏やかであったが
港外に出て、福田の沖にさしかかると急に船は揺れ出す。
乗客は船底の船室で大荷物に寄りかかって船酔いに苦しみ始める。
節子は、船酔いはしない。
戦禍を避けて父祖の地に疎開した時
その地の荒磯で遊びながら、泳ぎを覚えた。
小舟の船板を使って大波にのり、沖から磯へと戻る
今のサーフィンのような技も楽しんだ。
東シナ海に繋がる荒磯の海は塩分濃度が濃く
面白いように体が浮いたものである。
船底の船室では早くも乗客たちが
青い顔をして船酔いに苦しみ始めている。
そんな中にいるのも辛く、節子は、デッキへと上がった。
何人かの男達が手すりに掴まって並んで海を見ていた。
節子は、その中に松田吾郎の後ろ姿を見出した。
間違いない。
後頭部の形、背筋の伸ばし方は松田その人である。
( そうか )
船山院長の年休の勧め方が唐突であったと改めて思い返した。
( どうして、このような手の込んだことをするの? )
船山院長のクリニック経営の巧みさ
職員の気持ちを纏めていく力などを身近に見ていると
温和な表情の中に隠された強かさも潜んでいると思ってしまう。
少なくとも、単に愛想と腕のいいだけの産婦人科医ではない。
何かがある。
節子は静かにデッキ後方に移動した。
今はまだ、松田に声を掛ける勇気はない。
彼の妻の死後、まだ1年は経っていない。
節子には、松田の妻の死去に対して悔やみを述べるだけの度量はない。
置き去りにされた己の惨めさをいまだに引きずっている。
節子は、船が福江港に到着すると、松田の下船を確かめた。
次回 「 春嵐 #7 」 第6章 はるか遠くにムベの蔓 ① 再会 へ続く……
著:田嶋 静 Tajima Shizuka
【 オリジナル小説 】「 春嵐 #6 」 第5章 多川節子の休暇 【 終わり 】
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