祈るということ
今日街中で、お地蔵さんに祈る人を見ました。
そういう人を見る度、私はどうしても劣等感に苛まれます。
自分のその感情がどうして、どこから湧いてくるのか。それは祈りを捧げる人たちの真剣な姿に、自分が決して届かないことをまざまざと見せつけられた気になるからです。
以下、これは私の場合です。
初詣などでお賽銭を投げる時、皆さんは何を考えていますか?
【フェーズ1】
元旦の初詣。
お賽銭を投げることを決めた瞬間、願いを叶えてくれる神様的な存在が実在することが私の前提になります。何故なら不在の存在と思ってしまったが最後、お賽銭を投げる必要がなくなってしまうからです。
さて、そうなると大変です。自分の心を見透かす神様的な存在が存在するのです。自分の思考が全て読まれている。そう思うと自然でいられるはずがありません。
なので私は、神様的な存在を認識していないように自分を信じ込ませます。
大切なのは、神様的存在を認めた上で、神様的存在を認識していないよう振る舞うこと。
分かりますか?神様的存在を認識してするお願いは他力本願、つまりは神頼みであり、私はそんな人間に対して神様的存在が力を貸してくれるとは思えません。
では、どんな人間に対してなら力を貸してくれるのでしょうか。
【フェーズ2】
それは一方的にお願いをする人間ではなく、自力で叶えるための誓いや、そのための悩みを打ち明けるような人だと思います。
自分の力で道を切り拓こうという人間にこそ力を貸してくれる。私が思う神様的存在はそういった存在なのです。
そしてもう一つ。私欲を超えた聖人的思考の人間に対してはきっと力を貸してくれると思うのです。
【フェーズ3】
なので私は毎年世界平和。次いで家族の健康。そしておまけに自分の目標をささやかに伝えた上で、私は自力でなんとかするので大丈夫です。他の人のお願いを聞いてあげてくださいと言って帰ります。
そこまですればきっと私の願いを叶えてあげたくなるんじゃないかと思うのですが…。
いかがでしょう?
本当に全知全能な神様的存在がいるのであれば、きっとこのような私の浅ましい思考は全て見抜かれた上で、「それじゃあ君の言う通り他の人のお願いを聞くことにするね」と私の建前の願いはクリアーしつつ、心から必要な誰かの願いを聞くことでしょう。
余計なことを考えず、私が心の底から無心になって手を合わせられる日はまだまだ遠いようです。
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