集大成と有終の美に向かって(高校3年・最終話)
終わったが終わりじゃないトラックシーズン
なんも結果出せずもう引退しようかな?とも考えていた。
短期間だが出来る事は全て注ぎ込んだと思ってたし、この先自分がステップアップする所がもう見えなかった。
正直今更長い距離やりたくない、ロードで10kmの練習なんてゾッとしてた。
とりあえず何個かトラックレースはあったが夏の終わり頃に国体選考会があるのでソコがトラックのシメだったと思う。
まぁ、着順良くても選考記録があるからムリなんだけど、とりあえずそこまではやるかな。
レベルの違い
練習もロードに移行するってよりは5000m主体の練習がメインだったかな。
スピード練習ってより40分、60分と時間走が多くなってたまに1000m×5本とか。
ほとんど引っ張る事もなく後ろからケツたたく訳でもなく真ん中あたりで普通に影薄くやってた。
頭ん中は1500mの悔しさがやはり残っている。
そんな中私は監督に連れられて北九州大会に「見学」と「付き添い」と言う屈辱的な立場でわざわざ泊まりで大分まで連れていかれた。
ハッキリ言ってサボれるチャンスだったのに。
前日入りした会場には福岡、大分、長崎、佐賀から強者達が集まってる。 顔つきなんかも凄くちょっとビビッてしまい自分達が「弱小」「3流」ってのを初めて痛感した。
チームでジョグしてる姿、ミーティングでビシッとしてる姿、スタンドでの姿、どれを見てもみんな「チーム」で「1流」に見えた。
私はそんな人達を憧れの先輩を見るような眼差しで眺めていた。
初日の夜、私は近くのホテルに中学の同級生のチームが泊まってる情報を手に入れ遊びに行くと言ってたので顔出しに行った。
と言うとちょっとカッコいい言い方になるが実は私達は監督含め同部屋(フスマ一枚)だったし、修学旅行でもないのにペイチャンネルが見れなくなっていた。
一方で他校の友人の部屋は2人部屋でちゃんとアチラのチャンネルも見れると胸張ってドヤ顔で言われたので絶対行くからな!と言ってた。
彼は同じ中学の駅伝部だったが高校から短距離に変えて3年で見事100mで優勝しこのステージへ上がってきてる。
そんな彼、翌日予選だったがまぁ通過するよと余裕だったし、そもそも私からすればそんなもん関係なかった。笑
明日のレースより今日のディナー(オカズ)笑
その彼とは今も腐れ縁みたいに仲良くさせてもらってる。
当時の形姿は無くジャイアンみたいになっててクズっぷりな所は健在である。
部屋へ着いてノックしたら彼は僕を招き入れツインベッドにの片方に座り
「さ、よろしくお願いします」と両手を合わせテレビ画面を拝んだ。
まるで中学生である。
僕の前に現れた女体は身体をくねらせ・・・
コン コン コンッ
え? 今誰かノックした??
コン コン コンッ
誰か来た。 ヤバい。
と思ったが友人は、チームメイトの誰か来たんだろ?
ってドアを開けに行ったがなんかおかしい。
私は後ろを振り向いたらソコには友人の学校の監督が立っていた。
もちろんテレビはつけっぱなし📺
ちなみに私はまだ立っていない。笑
いや、たってる場合じゃない(グズ)
「オマエん所の○○先生はこの事知ってんのか!?」
静かな声だったが怒りが込もってる声。
「いいえ、知りません」私の声は震えていた。
もうこの先何があるか分かってるからだ。
「歯をくいしばれ」
やっぱりな。笑
そして
バチーーーン!!!
思いっきり1発いいのもらった。(私だけ)笑
帰って○○先生に今あった事言え。と言われ部屋を追い出された。
私はほっぺを腫らし知らない夜の街を3流らしくトボトボ歩いて宿へ戻り隠しても全てバレるだろうし監督に覚悟決めて全て話した。
「かくかくしかじか・・・・すみませんでした!!」
話しを聞いてた監督は半笑いで
「オマエはバカだなぁ〜」
って言ったあとケタケタ笑ってた。
多分なんだけどソコの短距離の監督とウチの監督なんか知り合いみたいな感じだったんだろうな。
歳も近そうだったし。
もしコレが自分の恩師(いたんです)だったり知らない監督だったらまた違ったんだろうな。
あー助かった。笑
ちなみにこの後監督と後輩と深夜映画でやってたエマニエル夫人を鼻息フガフガしながら観てた(マジ)笑
なんとなく気づいてたが教師も人間で男、コイツも好きもんである。
この大会の思い出はこれくらいです。笑
自分が出る訳でもないし観戦はしたがそんな記憶はございません。
ちなみに同世代の県で1番速かった人が多分3種目獲ってたと思う。
この人はインターハイでも1500mと3000m障害のどっちかで日本人トップだった。
隣の中学出身でたまに話ししてたが意外と普通の高校生だったよ。笑
地獄の夏合宿
夏休みがやってきて私はいつもの事ながら焼肉屋でバイトを始める。
練習は朝涼しい時間から午前中だけなんでバイトには間に合う。
ってかこんな時間からいつもやってたのね。と。
2年の時は記憶が無いくらい行かなかったからな。笑
夏場の練習なんてまともにやった記憶が無いから地獄、そりゃあ地獄。 練習が終わればゾンビ。
プールは自由に使えたから時間がある時はプールに直行してた。
アイシングとかじゃない癒しんぐだ。
もう氷水だったとしてもいい、心臓麻痺しても構わないと思ってた。 そんくらい辛かった。
1度、友達と飲み会やって次の日寝坊して遅刻して行ったが二日酔いでフラフラで暑いしマジ死ぬかと思った。笑
当然ちゃんと練習出来ずに途中で気分が悪いと言って辞めた。 ウソではない。
練習⇄バイト の毎日だったがなんか気持ちは充実してた。
学校の練習だけではなく当時夏休み恒例?の県内の参加したい学生集めてやる練習会みたいなのが1週間くらいあったりして結構色んなところから参加してた。
しかしなんだかんだでバイト終わって夜遊びしても学校で勉強しないから気持ちに余裕はあった。
しかし、やっぱり悪い遊びに行ったりもしてしまうんだけどね。笑
そんな中、夏合宿ってのが開催される事になった。 1週間くらいだったかな?場所は私が住んでる街。
正直バイトも行きたかったし私だけ通いにならんかなぁ?って思ってた。笑
400mの土トラックでいつでも勝手に使ってください状態。 小さいスタンド下にはトンボがたくさんあり終わったらちゃんと慣らしてね、モラルだからね!って置いてあった。
そのトラックから1kmほど離れた山の途中にあるユースホステルに泊まりジョグでトラックまで行く。コレを1日2回。 2部練ってヤツ。
県の練習会も2部練だったが正直コッチが地獄だった。
1番覚えてるのが2時間走。ジョギングくらいなんだけど8月の午後、灼熱の太陽が照りつける中ただひたすら2時間走る。
時代柄なのか給水なんて概念が無い。気温は40℃近くでカラッカラに乾いた土の上を喉カラッカラにして黙々と。
私は途中で走れなくなり歩くくらいのペースになるが休め!とか甘い言葉は無かった。
今マラソン練習で夏場でも50kmジョグとかやるが早朝だしちゃんと給水も補給もするし公園で水被ったりもする。
後にも先にも無い練習だと思うし二度とやりたいとも思わない。笑
当然終わったら1つしかない蛇口は取り合いになった。 3年生でよかったと思ってる。
オマエ辛そうだな先にいいぞ、なんて綺麗事でも言いたくなかった。
この競技場で8月ナイター陸上大会があって合宿のシメがコレだった。
疲労困憊の中みんな5000mにエントリー。
と言うか5000mしかなかった。
タイムレースで16分辺りでまとめられた。
疲れてる中のタイムってより後組で走ったキャプテンと1秒差だったのがやっと追いついたか!!?って気持ちで嬉しかったが出来れば勝って表彰台のテッペンに上がりたかった。
やっぱり1番にはなれないのか。 とね。
もう走れないかも
合宿も終わりバイト練習生活に戻り学生最後の夏休みも特にニヤけるような事も無く終わり秋のロードシーズンに入っていく。
その前に国体選考会があるし秋の記録会もある。
夏の走り込みはしたもののやっぱり1500mに未練がある。 公式の記録で4'10を切れてないからだ。
国体選考会で狙っていた。ベスト出したかった。
しかし夏場1500の練習は皆無に近く不安だった。
予選は通過し決勝もコール漏れせずに進んでいく。
しかし結果は及ばず。4'12とか13とか。そんなもん。余裕で走った予選と変わらなかったと思う。笑
今思えば予選で全力出してれば良かったんじゃないかと。
これにて私の1500mは幕を閉じた。
しかし5000mで夏合宿の成果が出て記録会で15分30くらいまで伸びた。
前で前でレースしようって必死に走ってた。
去年16分30〜40くらいで満足してた自分が別人?と言うかウソでしょ?って自分でも信じられなかった。
コレでやっとキャプテンともう1人に追いついた!
引退なんて言葉は頭ん中から消えていた。
10月、駅伝に向けロード走る事が増え順調だった私にある事が訪れた。
膝が痛い。。。。。
走りたいけど走れない。痛みも気持ちも初めてだった。
ちゃんと練習に入れず終わったら監督が紹介してくれた治療院や鍼治療へ通う日々。
ダメだ。もう走れないかも。
覚悟を決めろ!
駅伝の試走へ行くようになり私は去年と同じく4区8km。
全く走れない事は無いし治療してれば絶対ではないが走れてる日もあった。
試走で1区、3区、4区を走るのは1人ずつしかいない。
すなわち替えとか選考は無い、相当な事が無い限り確定だった。
駅伝へ向け練習してる中、ロードレースがあった。 駅伝前だし県内外からたくさん集まってた。 当たり前だが強い選手も沢山いる。
不安はあったが良く走れた。 32分台。細かい所は覚えてないが30とか40とかそんくらい。
凄い嬉しかった。 こんな走れるヤツになってるとは思ってもなかったし。
しかし膝の痛みは出たり出なかったり。 ホント気まぐれな爆弾みたいな膝。
治療も継続するがイマイチだった。
しかし試走も数回いいタイムで走れてたし痛いとか言ってらんない。
さぁ、どうするか?最後の大会、引退レース、最後の集大成
やるしかない、もう決めた。終わったら引退だし膝と心中しようと。
駅伝のパワー
予定通り4区を走る事になった最後の駅伝。
膝は不安だし出来れば7区を走って最後ゴールしたいと思いもあって伝えた事もあったが「じゃあ4区は誰が走るんだ?」と2秒で終わった。
テーピングやらやってたが当日は外してた。
会場でミーティングし円陣までは組まないが部員始めわざわざこの日だけ引率に来てくれた先生、応援に来てる保護者、OBが集まり、「よし!やるぞ!!」ってもう気付いたら「チーム」になってた。
あんなポンコツの集まりがココまで変わるとは。
そしてみんな各中継所へ搬送され付き添いとアップしながらタスキを待つ。
目標は5位。毎年上位5校は当たり前のように決まってたので何とか間に割って入ろうと。
ダークホース。
1区が走り終え4位と言う情報を聞き、まぁココは想定内だな。と思ってたが3強の1校が出遅れてしまっていた。
すぐ追い上げてくるだろうなと身体動かし情報を待った。
道端でラジオ流してる人がいて2区の中継を聴いて耳を疑った。
2区は1年だったが安定して走るタイプでスピードはそんな無いかな?って思ってた。
「3位」
え?ってか1人抜いたの?
終わって知ったがタイムも予定より凄い良かった。区間3位。もう学校内MVP確定。笑
お察しの通り私の心に動揺が。。。笑
後ろは1校速いチームが巻き返してくる。
しかし3位 やるなら今しかねぇ やるなら今しかねぇ♪(長渕剛)
と思いながらその反面、逆転されるなら4位かな?って弱気な気持ちもあって、ならば3区で抜かれて来ないかなーって思ったりしてた。笑
3区でジリジリ差は詰められるが3位で持ってくる姿が見えてきた。
その後ろには追い上げてきたチームも見えている。
中継所の役員で監督がいて、その横には追い上げてきてる学校の監督(中学の時1回電話くれた監督)が並んでて、オマケに優勝したチームの監督も(たまに練習に行ってた)いると言うこのシチュエーションなんて運命なんだ!って。
こーゆー時役員やってれば声かけれないのか知らんが目が「行くぞ!」「獲るぞ!」って頷いてた。
もう腹くくるしかない。
「よし!来い!!来い!!」みたいな声かけたと思う。
「行け!!」と声をかけられてタスキを握りしめ走り出した。
凄い位置でもらっちまった。。
ゴメン。。流れ崩してしまった。
4区に渡す時折り返して3区の逆を走るので後ろの選手とスライドする。
「近い!」
もらう時に見えてはいたが近い。
落ち着いてとか考える余裕はなかった。
スタートダッシュを緩める事はなかった。
1kmの通過が笑えるくらい速く後ろも少しは離れただろう。
「勝ちに行く」「ココで決める」ではなく
「逃げたい」「追いつかれたくない」だった。
スタートダッシュの代償はやってくる。分かってる。 追いかけてくるのも分かってる。でも逃げるんだ僅差でもいいから逃げ切れ!
こんな事ばかり考えていたかな。
案の定5km過ぎる頃1台の車が横をサーッと走っていく。
ラジオ中継車だ。
考えなくても分かる。 もう来たんだヤツが。
程なくして黒いユニフォームにちょっと色黒な姿が並んだ。
捕まった。。
先に行かせようとは思わない。 必死にくらいつく。 彼は1つ学年下、なんかそんなのもあり簡単に下がりたくなかった。
関係ないけど先輩だぞ!!って。笑
暫く並走し背中に着き走ったが黒いユニフォームに黄色いタスキを掛けた姿は少しずつ離れていく。 せめて差が広がらないようにと必死に追いかける。 彼は勢いよく区間賞を掻っ攫っていった。
ゴメン!ダメだった。
残りはそんな事ばかり考えて走ったよ。
中継所に行くのが嫌だった。
視界には入る位置で渡したが
「ゴメン」
一言だけ後輩に言って汗と涙が沁みたタスキを渡しコレで勝負の1年が幕を閉じた。
中継所ではチームの仲間が迎え入れ「大丈夫、よく粘った」なんて慰めてくれるがその言葉を受け入れられなかった。
他の学校の付き添いに友人がいたりして声かけられたがなんも言葉が出なかった。
さらに抜かれた学校の応援で夏で引退したはずの中学の同級生(先ほど出てきた大会のホテルでペイチャンネル事件)もいて
「まぁ、しょうがないよ!ドンマイ!お疲れ!」って。笑
幼なじみだからこそ言えるこの言葉。
当然なーんも響いてないが、まだ記憶には残ってるからな!笑 今度帰省して会ったら言ってやろう。
結果は6区で1人抜かれて5位。
目標の5位には入れて学校最高順位だったが私達に喜びはなかった。
始まるまでは5位以内!だったが、いざ始まってみると3位以内!って変わってたんだからな。
コレが2流になれたのか3流なのかは誰も分からない。
学校最高順位でこの順位はいまだに抜かれていない。
カッコ良く言えば「最強世代」(学校内でね)笑
これで私の陸上競技人生は終わった。
まだ走りたいって気持ちはさらさらなかった。
僕は就職活動を始める事にした。
その後
11月だと言うのにまだ進路が決まってなかった。
進路指導の先生も駅伝終わるまではあまり言ってこなかったが終わった途端、日々呼び出しで凹んで頑張った1年間に浸らせてはくれなかった。笑
監督が知り合いの会社でマラソンクラブみたいなクラブチームがある会社を紹介するから行かないか?って言われたがもう走る気なかったので丁重にお断りしました。
半分なげやりで名古屋にある会社を受ける事にした。
旅費は往復出るし落ちてもいいやと旅行気分で行った。 試験とか無くちょっとキザな専務の面接のみ。 面接と言っても堅苦しくなくソファーに座ってちょっとした話しをするだけ。
テキトーに受け答えして帰ってきたが数日後
「採用」って手紙が届く。
あっさり決まってしまいました。
それから卒業までは毎日遊んだ。 自動車学校も通い始め学校もまた行ったり行かなかったりの生活が始まった。
クラスの友達の所へ行き酒飲み交わしたりアレしたりコレしたり地元の友達が免許取って一晩中ドライブ行ったり毎日遊び潰した。
※この年に高校卒業する前に子供卒業しました。笑 卒論は出す予定ありません。笑
陸上以外で楽しかった事や思い出に残ってる事は需要がありそうで気が向いたら書きます。
1月に市内の駅伝があってメンバーいないからって出たが全く練習してないから全く走れませんでした。
なのに県内一周駅伝のメンバーに入ってくれと打ち上げの2次会(スナック)まで連れて行ってもらったがその後37歳までマラソンシューズを履く事は無かった。
最後に
小学校5年生からランニングに興味を持ち中学高校と走ってきた。
小学校の先生は今、校長先生になられており還暦過ぎてもランニングしてるそうです。
中学の先生は何してるかわからないが同級生とは数人今も連絡している。
高校の監督は私達が卒業した翌年、教師を辞めて他の仕事をしてるらしく何処で何をしてるか分かりません。
キャプテンは地元企業に就職し1年目から九州1周駅伝メンバーで大会が無くなるまでメンバーだったんじゃないかな?
2017年のさがさくらマラソンで一緒に走って30km付近で足攣って歩いてる所を「頑張れ!」って言い抜き去った。
20年の時を経て初めて勝った。笑
なんだかんだで最後は一生懸命になれた陸上競技、もっと早くから頑張っておけばなんて思わない事も無いが頑張れるキッカケが良かったから最後は頑張れたしそれまでの過程があってからこその最後だったと思う。
どう転んでも最後は一緒だったんじゃないかな?
当時はそんな考えなかったけど今思い出してみれば小学校から高校3年まで良い思い出だし自分の財産。
誇れる結果は何も無いが今の自分に対しては誇れるんじゃないかな。
それだけでいい。
そうそう、その後の私はと言うと
「元気でやってます!」
長い自己満作文になってしまいましたがココまで読んで頂きありがとうございました。
おしまい。