第1章.黒船見学(1)龍馬、死す
嘉永6年(1853)浦賀に黒船がやって来た。
またたく間に噂が広がり、江戸まで騒ぎの渦中となる。黒船見物をした者が現れると、より具体的な話が流布し始めた。見学できるとなれば話は変わってくる。火事や喧嘩を見に行く野次馬かの様に浦賀に向かう者も出てくる。そんな野次馬の一人、江戸を出て、東海道を単身で南下している男が居た。
まだ若く背の丈は6尺(約180cm)を超え、この時代としては偉丈夫、大男の部類に入る。
京と江戸の間を何度も往復している健脚でもある。多摩川を渡って相模に入ると、夕刻には今の横浜台町の宿場町、神奈川宿の宿屋に到着した。出された足湯で自分で足の汚れを落とすと、充てがわれた二階の部屋へ上がった。
宿は盛況でほぼ満室で、ここでの話題の中心はやはり黒船だった。
浦賀で黒船を見てきたと言う男が、宿の広間で講釈を垂れている。その男を囲むように宿泊客が車座になって話を聞いていた。偉丈夫の男が座る隙間もどうやら無さそうなので、廊下にドッかと座って、男の講釈を聞いていた。同じ話を何度も繰り返し、夷狄に挑む手段は無いと結論づけるので聞き飽きたのか、男は2階の自分の部屋に上がった。
男が江戸を出てきた理由は、講釈をしている男同様、浦賀にやって来た黒船を見る為だった。ひと目、この目で見てみたくてフラリとやってきた。遥か遠くにあるという南蛮から、日ノ本までやって来る能力を持つ船と船を建造できる南蛮人に感心を抱いていた。
男が感心するポイントも些かユニークなものだった。
船員の姿が半裸姿やフンドシ一丁では無く、制服を身にまとっているという箇所に男は興味を抱いた。日ノ本の船ではそのような環境は用意できない。羽織を纏うのなら、宿屋の様な独立した部屋が船の中になければならない、と男は考えた。船の中でもそれなりに身を清め、個々に独立した空間が用意され、もしくは食事処のように集団で食する部屋があるのでは?と考えた。それ故に、大きな船が必要となるのだろうと、何しろ遠方から日ノ本まで長い航海だ。
日ノ本の商船で連日連夜の長距離航海には限界がある。幕府が鎖国中で他国との交易を認めていないのを口実にして大型船の建造を許していないのだが、船大工は南蛮船の大きさまでは作れないと聞く。船内を宿のように区分けする術も無いらしい。日本の船の内部は荷室であり、船員が雑魚寝をする大部屋でしかない。南蛮船がそんな構造であるとは到底考えられなかった。
夕飯を終えても、好奇心旺盛な若者は逸る気持ちが収まらない。宿泊せずにそのまま浦賀まで向かっても良かったかもしれないと後悔し始めていた。
宿の近くにある、海の安全を祈る人々が訪れる金比羅神社に男は散歩に出た。月が照らす夜の神奈川湊の海を、高台から見下ろそうと考えた。
当時の地形は現代とは異なり、東横線横浜駅、反町駅は海岸線で、青木橋の下を走るJR線と京急線の線路は海中で、波が押し寄せていた。
海を見下ろすように、社や寺が高台に作られていたが、明治期の廃仏毀釈で建物は変わったが、今も現存している。
男が金比羅さんの石段を見上げると、急な段のてっぺんにある鳥居のあたりで何かが光ったような気がした。歩みを止めて、暫く鳥居の光った辺りを見ていた。すると、鳥居がはっきりと見えるように浮かび上がり、後方の境内が一瞬明るく輝いた。直に、暗闇に包まれてしまった。
「なんじゃ?」闇の中で独り言を言いながら、腰の長物と脇差を確認する。
ひょっとすると南蛮人が密かに上陸して、神奈川宿と神奈川湊を偵察しているのかもしれない。彼らは短い種子島を護身用に身に着けているとも言う。南蛮人を夷狄と捉えている男は、まだ若く北辰一刀流の門下生である男は愛国心を奮い立たせる。
剣術見習いでありながらも、道場では上位にある。勇気を振り絞り、ゆっくりと石段を音も立てずに上り始める。
百段までは至らない、と思ったが長く感じた。
汗が額を滴ってゆく。鳥居の形が次第にぼんやりと見え始める。幸いににして、今宵は半月だった。石段の左右の木々が無くなり、間もなく社の境内となる。何かが居れば、姿形ぐらいは見分け出来そうだと思いながら、闇に慣れ始めた己の視力を味方にして目を見開き、何時でも刀を抜ける体勢を保ちながら、ゆっくりと登ってゆく。
何やら叫び声がしたと思ったら、転がるような音と共に突然何かがぶつかり、男の体が宙に浮いた。石段をころげ落ちながら後頭部に強い衝撃を感じ、男は意識を失くした。
享年19歳、幕末の志士の一人となる坂本龍馬は、あっけなく他界してしまった。
史実は変わってしまうのだろうか・・。
(つづく)
(注)
龍馬が浦賀に黒船見物に向かった下りは、フィクションです。公共放送の大河ドラマ「龍馬伝」では黒船見物しています。
勿論、本作品も創作、フィクションです。
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