塩むすび(3年前の下書き2)
時々、無性ににぎりめしが食べたくなる。それも塩を振りかけて海苔を巻いただけの素朴なやつ。それが何故か夜中に食べたくなったりする。大概、夜中に作って食べると中学生ぐらいの頃は満腹感に満たされて眠りにつけるのだが、年を重ねると大体後悔してムカムカしたお腹をさすりながら朝を迎える。
だから夜中食べたくなっても我慢して、朝起きて炊き立てのご飯で握り飯を作るのが良い。ついでに味噌汁も作って食べると最高に旨いのだ。コメと海苔の組み合わせもさることながら、何で味噌汁とコメってあんなに旨いのか。打首獄門同好会が日本の米について熱く歌っていた通り、DNAにコメと味噌の組み合わせサイコーという記憶がこの長い長い日本人の歴史の中で名もない先人たちによって刻まれてきたのかもしれない。
握り飯を作る中でどうしてもこだわりたいのが握り方だ。今時はラップで握れば手も汚れないし衛生的だと言われる。ましてコロナで騒がしい昨今にあってはより徹底した衛生観念が生まれることだろう。しかし、そんな中であっても僕は握り飯を作るなら素手に水をつけて、少し塩をふりかけて握る往年のスタイルこそ至高だと思う。寿司だって旨い寿司はやはり素手で握ることで手についた菌が旨味を増してくれることで旨くなるという。そんな研究結果があるほどだ。まったくなんでもかんでもアルコール消毒しなきゃならんこの現状にほとほと嫌気がさしてくる。
こだわりという点においては握り飯の形も中々に興味深い。うちの母親はよく三角むすびを作っていたので自然と三角むすびが自分の中でのベーシックなスタイルとして身に付いた。しかし母の母であるばあちゃんこと陽子さんは俵型だった、保育園で春先にお弁当作ってもらって園庭で食べたおむすびはこの陽子さんが作ってくれた俵型のおむすびであった。陽子さんはさらにおむすびには味付け海苔を巻く派で、これがまた旨いのだ。そして海苔を巻いてないおむすびもあり、これにはゴマが付いていたが、このゴマの香ばしさとコクのあるちょっとした風味がむすび飯にまた最高にマッチする。どっちにしろ旨いのだからこれ以上の幸せはない。むすびめしは誰も不幸にしないとかたく信じたいと思う。
さて、むすびめしに合うものと言えばお茶だ。緑茶もまぁ旨いのだが、むすびめしにはほうじ茶が殺人的に合うと個人的には思っている。いや緑茶も捨て難いのだがここはほうじ茶を推したい。それはむすびめしを食べて喉の奥にある米粒を胃に押し流さんとほうじ茶を飲み込むと、ふわっとあのほうじ茶の香りが鼻を通っていくのだ。あれを感じる時の幸福感は何者にも変え難い。これを書いているだけでヨダレが出てきそうだ。
追記
3年前の7月の記事でした。
こうしてみると私は昔から食に対する探究心が旺盛でした。そして食は生きることに直結している。大学で仏教を学び、その中で中庸という言葉を学んだ。衛生観念が云々など傍若無人な物言いではありますが、常々、病と健康についてもバランス(中庸)だと思う日々です。菌もウィルスも上手く自然と共生している事を思います。全てとは言い切ることも出来ませんが人間の勝手な分類により善と悪が決まったりします。発酵と腐敗の違いは何か?と問われた時に、害虫と益虫の違いは何か?と問われた時に。毒と薬の違いは何か?と問われた時に。何と答えるでしょうか?そこに違いは無い、では何が違うのか?答えは矛盾しています。これが言葉の、論理の限界。まったく説明になっていない。
人間の賢さを垣間見ると同時に、人間ほど欲深く、そして弱い生き物は無いと感じます。
それでも、生きてゆくことに皆ためらいはない!
それはどんな生き物も同じ!
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