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TRPG制作日記(185) 自由とルール

前回、『太陽神の巫女-AmaterasuCard-』TRPGの基本ルールを書きだして掲載しましたが、全部で三十二条もあり、その分量にうんざりした人もいるかもしれません。ルールが多いということは守るべき約束が多いということで自由を失うことである、と感じる人は多いでしょう。

ルールと自由が対立すると感じるのは理由のないことではありませんが、しかしそこは議論しておきましょう。

今日は自由について書きます。


さて、もっとも極端な例から考えて行きましょう。私たちは日本人であり、そして日本の法律に従います。

そして、日本の法律は憲法を具体化したものであり、そして憲法というのは象徴天皇制立憲民主主義を具体化したものです。そして、私たちは社会契約を結んだということで日本の法律に従う義務があります。

ここで疑問に思う人がいるでしょう。いつ、私たちは日本と社会契約を結んだのかという疑問です。

公務員でもない限り、誰もが日本国憲法に従うという契約書に署名をしたことはないと思いますし、また署名どころか全文を覚えている人すらほとんどいないでしょう。

そして、恐ろしいことに、最高裁判所の判事になるのが簡単ではないくらいに日本国憲法は十分に難解です。

私たちは自分達が理解できず、同意もしておらず、そして日頃は存在を意識することすらないルールに従うように定められています。もちろん、違反したら罰を受けます。

ここで「人間本性」という概念について考えてみましょう。ホッブスによると私たち人間には普遍的な本性があります。

四点を上げておきましょう。一つ目は人間は平等な身体能力と思考力を持つというものです。

いや、身体能力と思考力は人それぞれ異なるでしょうと多くの人は思うかもしれませんがそれは問題ではありません。問題なのは、私たちは自分を害する者を殺せるほど十分に身体能力と思考力が平等なのです。

どれほど弱い人間でも、相手を殺す計画を立ててそれを実行に移すことができるほど十分な身体と心を持ちます。

つまり、私たちは戦争状態に置かれており、何らかの方法で常に安全を確保しなくてはなりません。そして、人間は平等な能力を持つので法律、警察、そして軍事力で安全を確保することはできません。

逆に言えば、私たちが死んでいないということは、暴力以外の理由で犯罪と戦争が回避されていることの証明です。

二つ目として、人間には希少なものへの必要性と欲求があります。私たちは衣食住が必要ですが、しかし、それは希少であり、労働により生み出す必要があります。衣食住が希少であるのは、資源の問題と、そして私たちが労働に費やせる人生の時間が有限だからです。

三つ目、私たちは利己的な存在です。というのは、積極的に他人を攻撃したいという闘争本能があるという意味ではなくて、衣食住や娯楽などの必要性や欲求を満たすときに、自分や自分の家族、そして友人たちを優先しようとする傾向があるという意味です。

両親は自分の子どもを育てます。そして、税金に文句を言います。

四つ目、私たちは死にたくありません。もし死にたい人がいたら死んでいるのですでに世の中にいません。


さて、ホッブスが社会契約という概念を持ち出すときに、彼は社会契約が実際に結ばれたかどうかを問題にしませんでした。

むしろ、発想は逆であり、私たちはすでに人間本性を妨げない社会に住んでいるために状況の変化を望まないと考えたのです。

自分の人生を考えてみた場合に、とりあえず衣食住と趣味や娯楽などは確保されているし、権力者を守るために家族や友人を犠牲にするように強制されることはないし、自分や家族の命を守るために犯罪を犯す寸前まで追い込まれている貧困者が周りにいない。

つまり、人間本性から考えたときに、私たちは人間本性を満たすような社会に参加するために社会契約を結ぶだろう、なぜならすでにそのような社会で暮らしているからだと解釈するのです。


私たちが生きているということは、衣食住が確保されている証拠であり誰からもまだ殺されていない証拠です。

そして、社会契約というのは、それがどちらかといえば破棄されるときに意識される契約です。

食べるところも住むところもなく、周りには人殺しばかりの場所からは私たちは逃げ出したいと思うでしょう。つまり、社会契約とは私たちが必然的に望む契約のことなのです。


自由とは人間本性が妨げられないことです。以上のことから、社会契約の内容はほぼ人間の物理的状態のみから必然的に決定します。憲法は民意ではなく人間の物理状態から決定されます。

そして、社会契約の具体的な内容は、イエス・キリストが神の法則として断言したように、自分を大切にしなさいと、そして自分がされたくないことを他人にしてはならないという二つの契約に集約されます。

以上の二つの契約を守らない社会は存在できません。なぜなら、そのような社会と契約を結ぶとその人は物理的に死ぬからです。

そのため、社会契約とはスポーツやゲーム、そして小さなコミュニティですら二つの契約は守られるべきルールとなります。

社会契約に違反するあらゆる社会はいずれ崩壊します。

貧困と暴力により快適さを確保しようとする社会は、快適さを確保できないのは現代社会を見れば明らかです。なぜなら、私たちの能力は他人を殺せるくらい十分に平等だからです。


世の中には良いルールと悪いルールがありますが、良いルールとは人々が一度でも結ぶと破棄したくないと思うルールです。

それはあらゆるルールが満たすべき条件であり、逆説的ですが、そもそも守れないルールはルールではありません。誰もが自然に守れるルールが、そして守ることにより本人の意思が妨げられない、つまり自由を感じることができるのが良いルールです。

私たちは自由を制限するためではなくて、自由になるためにルールに従う必要があります。そして、ルールに従い自由になれない場合はそれは正しいルールではありません。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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