ゲーム制作のための文学(4) 物語とは何かを考える。
文学は物語の否定で、エンターテイメントは物語の肯定であるという意見を聞いたことがある人がいるかもしれません。もちろん、そのような側面はありますが、多くの場合はそれは文学とエンターテイメントでの物語の定義の違いを無視した議論です。
ゲーム制作に携わっている人が考えているストーリーの定義と、文学を学んでいる人が想像するストーリーの印象は同じではありません。
文学で物語といえば、キリスト教やイスラム教、ロマン主義やマルクス・レーニン主義などの「大きな物語」を意味するか、ポストモダンの「小さな物語」を意味するかのどちらかが多いように感じます。あるいは、ロシア・フォルマリズムによる物語でしょうか。
今日は、ギリシャ悲劇を例にして、より一般的な話をしましょう。
第三章「オイディプス王」を制作します。
『ゲーム制作のための文学』『
第三章 オイディプス王
オイディプスという単語を聞けば直ちに父殺し、しかも母親への近親相姦への願望を抑えきれずに、しかし父親に刃向かい去勢されることを恐れて精神を抑圧してしまい、無意識に捨てられた性欲が爆発しての父殺しを思い浮かべる人がいるかもしれません。
そして、大衆よ権力を恐れてはならない、父殺しを実現して革命により母親を手に入れるのだリビドー万歳という革命家によるプロパガンダを、おそらくは一度くらいは耳にしたことがある人もいるでしょう。
しかし、今回はフロイトの話はしません。悲劇の話をします。
さて、ソポクレスの『アイディプス王』は紀元前に書かれた悲劇です。
この物語は一つの予言から始まります。それは、生まれてくる王子が父殺しを行い母親と結婚するだろうという予言です。
この予言を聞いたライオス王と王妃は、テーバイ国を守るために泣きながら自分たちの子どもを山に捨ててしまいます。しかし、子どもは死にませんでした。子どもはコリントスの王夫婦の養子となりオイディプスとして育ちます。
しかし、ある日のこと、彼は信託で、自分は父親を殺して母親と結婚する運命であることを知ってしまいます。
自分を育ててくれた愛する父親を殺したくない。罪を犯したくない。
その思いで彼は旅に出ます。旅を続けていると、彼は一人の男と出会い、争い、その男を殺してしまいます。
そして、実はその男がライオス王だったのです。
さて、何も知らない彼はテーバイ国でスフィンクスを倒して英雄となり、夫を失った王妃イオカステと結婚します。
そして、オイディプスは国のために尽くします。
ところが、恐ろしい疫病がテーバイ国を襲います。理由を調べると、神が父殺しと近親相姦の罪でテーバイ国を罰しているということでした。
オイディプスは自分がライオス王を殺して、実の母と結婚して、そして国を滅ぼそうとしていることを知り、自分の目を潰します。王妃イオカステは自殺してしまいます。自分の目で世界を見て考えることに何の価値もないのです。
もし異世界転生、特に悪役令嬢などの小説に馴染んでいる人がいれば、悲劇の背後にある思想は非常に馴染みがあることに気がつくでしょう。
悲劇とは、現代的な表現を使うのであれば「物語の必然」です。
ライオス王も、オイディプスも、そして彼らに関わるすべての人たちは予言から逃れるためにできるだけ多くの努力をしました。ライオス王は国のため、神の怒りを招かないために自分の子どもを山に捨てました。オイディプスは愛する家族と別れて旅に出ました。
予言から逃れるために、物語の必然から逃れるために誰もが自己犠牲の精神を発揮して国のために尽くしました。
しかし、すべての努力は無駄でした。犠牲と努力にもかかわらず、オイディプスは罪を犯して国は疫病に飲み込まれます。歴史の、そして人生の終着点は決まっており、そこから逃れることができないというのは物語の法則です。
スフィンクスは謎の答えは人間は老いて死ぬということでした。
人間は苦しんで死ぬために生まれるのであり、指導者たちはいずれ滅びる国のために人生を捧げるのです。
物語の必然は、後に肯定的な悲劇を生み出します。キリスト教です。
キリスト教において、死は終わりではなく始まりです。私たちは死ぬことにより救われるので喜んで死に臨むべきなのです。なぜなら、キリスト教の物語は人が死に復活することでイエス・キリストと共に生きることができるからです。黙示録にあるように、終末は神の計画で世転ぶべきことです。
キリストは真理であり、道であり、命です。
肉体的な死は霊的な生に結びつきます。
そして、世界の終末、人類の滅亡は喜ぶべきことです(人類が宇宙に逃げたとしても神は必ず人類を滅ぼしてくれます)。
もし、この大きな物語を否定する、あるいは否定的な感情を抱く人がいるのであればその人は正しいキリスト教徒とは言えませんし、神を信じているとも言えません。仏教ですら、極楽という天国があります。ほとんどの宗教において、信仰を持つということは死を肯定的に捉えることなのです。
物語は多様ですが、そこには共通点があります。
たとえば愛国物語では、悲劇の独裁者は国を守るために自国の安全保障を脅かそうとした隣国に先制攻撃を断行します。保守思想による積極的平和主義です。そして、悲劇の独裁者は誰からも理解して貰えない悲劇の自分を慰めます。愛国物語とは国を守るために国民を犠牲にする独裁者の悲劇です。
また、ロマン主義物語では革命家は正義のために戦います。自由主義イデオロギーのためなら国民が全滅することも恐れてはなりません。イデオロギーは命よりも重く、イデオロギーのためならば死を恐れるのは恥ずかしいことです。絶対正義のためならば、仲間の犠牲を恐れないのがロマン主義です。
物語とはそれ自体が価値観です。
そして、物語を物語とするのは、ただ生きることよりも善く生きることの方が重要であるという正義と徳の思想です。
さて、十九世紀になると、私たちはまったく新しい、それまで誰も考えることができなかった思想を手に入れました。
人生は決めれたものではなく、生み出していくものだという思想です。
こうして私たちは宗教から文学、物語から現実の世界に踏み入れます。決められた結末のための人生ではなく、結末の分からない、私たち個人が自分で見て自分で考えて自分で決断して行動する世界が誕生したのです。
こうして物語は否定され、キャタクターが誕生しました。
文学は正解のない開かれた人生を肯定します。リアリズムは、ただ表現であるだけではなくて価値観です。カントにみられる神の御心への服従や、伝統宗教の保守にみられる権威を尊重する考え方とは根本的に異なる価値観を文学は持ちます。物語を追うだけの人生、物語に逆らえない人生はつまらないです。
物語の否定とは、物語が悪いということではなくて、あるいは物語を作品に取り入れるべきではないということではなくて、登場人物に活躍の余地を残す、シナリオや社会常識に無理矢理に個人を服従させないという意味です。物語がキャタクターを引っ張るのではなく、キャタクターが物語を動かすことです。
観念論(物語)から唯物論(キャタクター)への歴史的発展。
神のシナリオからの逸脱。あるいは宗教の支配からの脱出。まさに、それこそが文学のもっとも根本にある価値観です。
この点においては、あらゆるゲームは文学であると言えます。スポーツも含めて、ゲームとは決められた物語を追うのではなくて、ルールに基づいて自分自身で考えて物語を生み出す行為だからです。
読書に対するゲームの面白さはそこにあります。
ゲームも、それ自体が一つの価値観です。多くの場合は、ゲーム制作において人命よりもイデオロギーの方が重要であるという物語は不適切でしょう。それはゲームという形式とその内容に齟齬を生みます。
ゲームは人生と同じで、何度でもやり直せるしやり直せるべきです。あるいは、何度でもやり直せる人生の再現となるのが適切です。
文学において不条理(必然とは宗教家の詐欺)は希望です。
悪役令嬢とは破滅が約束された高貴な女性に生まれ変わった少女の物語です。彼女は自分の運命を書物、デジタルゲーム、あるいは前世の記憶から知っています。運命に逆らうのが難しいことも知っています。しかし、世界は不条理です。物語は科学法則ではありません。世界は物語ではなく科学法則に支配されている、世界が不条理だからこそ悪役令嬢は破滅を回避して死を免れることができます。
未来を予測して自分で考え高潔に生きることで、自分と、そして自分以外の人々の幸福に貢献することができます。
逆に、アイディプス王は「悲劇」の主人公であるがために、不条理ではない世界で生きているためにいかなる努力も無意味であり、高潔な生き方も、自己犠牲も無駄な努力なのです。そこに希望はありません。
結末が開かれているというのは、文学の重要な要素です。私たちは結末が開かれている世界を読み演じることで現実の世界を知るのです。
』『ゲーム制作のための文学』
文学においては、物語はそれほど肯定的には考えられていません。それは物語がスターリンによる社会主義リアリズムの象徴だったことと無関係ではなかったからだと思います。
マルクス主義による発展段階論による、資本主義、社会主義、共産主義に段階的に発展していくのが歴史の必然であり、正しい物語なのだから、私たちはこの大きな物語に従い文学や芸術、そして人生を行わなければならないと言われていた時代があります。
そして、一昔前のポストモダンは、この大きな物語を否定するところから文学を始めています。
もっとも、ポストモダンの大きな物語から小さな物語というのは、それ自体が典型的なマルクス・レーニン主義の大きな物語ですが。
今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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