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【稀人ラジオ 㐧一夜 編集後記】

友人と稀人ラジオというポッドキャストを始めた。

第一回目の序盤ではタイトルとなった稀人ラジオの元になった折口信夫の稀人の概念について話している。稀人とは、「稀+人」。つまり、「稀に来訪する人=珍客」として捉えられるが、折口はこの言葉により広がりのある観念を付与している。曰く、

"ひと"と言ふ語も、人間の意味に固定する前は、神および継承者のいみがあつたらしい。其側そのがわから見れば、まれひとまれびとは来訪する神と言ふことになる。ひとにいて今一段推測しやすい考へは、人にして神なるものを表すことがあつたとするのである。

「国文学の発生(第三稿)/まれびとの意義」(全集①五頁)

折口の考える稀人は、神でもあり人でもあるようなアンビバレントな存在。柳田國男の民俗学を独自に継承した折口は、類まれなる直感力と稀人というキー概念を元に日本の民間行事や祝祭、和歌や国文学がどのようにして生まれたかを紐解いた。常世と呼ばれる日本人の魂の故郷とも言える他界から、時折祖先が帰ってくる盆の行事や節分、そういったものも稀人という概念でまとめあげた。折口によれば、稀人をもてなすために言葉が発達し、舞や踊りなどの芸能が生まれ、気持ち良い滞在空間のために茶道や華道が生まれた。あらゆるものの源に稀人がの存在がある。芸者や旅芸人、歌舞伎の主役であるゴロツキも稀人の変形であり、神楽などで舞い手が一種のトランス状態に入った瞬間も稀人人に扮した神⇄神に扮した人なのだそうだ。

これはラジオの名前にぴったりだと思った。私と相方の植田響はニューヨークで留学時代に出会った。私が留学生向けのメディアを立ち上げ、Facebookが全盛の時代にコミュニティなるものをしばらく運営したものの、卒業を控え自身の興味が内省に向かったことから、それを持て余していた時期に、なにかできないかと声をかけられた。ジャズピアニストで作曲家である彼と話す中で、音楽が生まれる瞬間を目にしたことから、創作の発生現場を作りたいと思った。江戸の演芸文化である寄席とニューヨークのプロアマが入り乱れたオープンマイクへの傾倒から、主客が混淆する舞台を目指して新たに作ったのがyosemicという団体で、NYでしばらく活動した後、コロナの影響で帰国。植田は下北沢を拠点に新たな仲間を募って活動を再会したが、私は表現に対する関心事の変化とコミュニティ運営に対する興味が一度節目を迎えたこともあって離れることとなった。そこからしばらくして植田が下北にバーを構えたので、ちょくちょく顔を出すようになった。3ヶ月に一度、半年に一度。3週間に一度。頻度はまちまちだが、互いに別々の生活圏で異なるバイオリズムで日常を摂取している中で、時たま会うとそれが案外面白い。前提を共有していないが故に、いい具合に抽象化された話を土産物として交換しているうちに、これを残したいという話に転がった。つまり、私たちは互いに稀人だったのだ。

そして、バーというある種閉じていて、同時に開けている空間の事情も相まって、時に外からの客人の飛び入り参加のオープンマイク的な潜在性も残した場所で収録を始めた。第一回では早速、客人として即興コメディをしている顔馴染みの二人を迎えた。「鬼は外、福は内」と言うが、「内は外でもある」という重なり合いと雑味こそが肝要。なんらかの表現活動をするコミュニティを運営し村的なるものを作りたいと考えている植田にとっても、現代アートという文脈のある種の閉鎖的なクラスターにい自分にとっても、おそらくどうしたら内部の熱を保ったまま排他的でない流動性、ある種の動的平衡状態を作れるかというのが関心事にある。その鍵こそが、折口のいう稀人であり、古代から日本人がどのようにして他者と折り合い、外部を内部に取り込みながら、文化や芸術を発展させていったのかという探求とのアナロジーにある。

第一回の中で、遊びと規則ルール、他者とのコミュニケーションという話題にも触れているが、こういった雑多な記録は、おそらく自分達の未熟さや思慮の浅さを曝け出すような行為かもしれないが、これらはあくまでその時点の私たちの現在地であり、同時にプロセスでもある。

折口は、古来から続く祭りを研究する中で、祭りの時に神社の境内などに立てられる旗や、屋台や山車だしの上に掲げられた竿、盆提灯や正月飾りの門松に注目し、「依代よりしろ」と名づけた。古来人がまれびとを招くための目印になるものだ。このラジオがいずれ依代となって、新たな出会いが生まれたらこんなに幸福なことはない。が、今はそこまでは求めない。

とにかく話を生成しイストワール続けること、揺らぎ続けること。
そこで生まれた音の波形を切り取って、梱包するパッケージングこと。

幸いこの編集作業エディトリアルプロセスにも多くの気づきがあった。編集後記と銘打ったからには、ここからが編集後記なのだが、長くなったので手短に。編集時点の自分は話していた自分とは時空間的に離れている。自分の発言や話ぶりは既に過去のものだ。数日〜数週間のタイムラグとは言え、考えが変わっていることもあれば、新たに発見していることもある。つまり、編集する私と話していた私は既に稀人どうしとなっている。そして、編集したものを植田に投げ、音源を加えて配信した後の今の私もまた別の稀人となっている。この編集後記は、既に二人の稀人となった私自身を俯瞰して稀人的な立場からテキストで語り直したものになる。


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