私教育の縮小と社会の学校化
□景色
もし「学校」のない時代を考えると、人は「教育」について何を問題にするか。
——大部分、家庭における、親の子どもに対する教育を問題とするだろう。「親による子どもへの教育=私教育」こそ、もっともその質が問われるもの。しかし、「私教育」は戦後以降も「公教育」に主役を奪われつづけている。
□本
『教育史の中の内村鑑三』
安彦忠彦 お茶の水書房 2016年
目次
はじめに
1 明治以来の日本人と日本の教育
2 明治以来の日本の教育と内村鑑三の生い立ち
3 明治中期からの日本の教育と内村鑑三の公教育批判
4 大正期以後の日本の社会教育と内村鑑三の教育観
5 第二次世界大戦後の日本と内村の系譜から見た日本の教育
6 現代の日本社会と内村の系譜から見た日本の教育
□要約
GHQのCI&E(民間情報教育局)主導、日本側教育家委員会を含み、間接統治下に戦後の教育体制は「平和主義、民主主義、基本的人権の尊重の三大原則による日本国憲法」国家体制のもと、「教育勅語体制から教育基本法体制へ」の教育行政の移行、「六・三・三・四制の単線型学校体系」の確立、「男女共学」の採用を具体化する。
国際情勢として東西冷戦の様相を呈すると、アメリカは日本国内の左傾化を防ぐため、昭和二十六年の独立以前から左翼的な思想に立つ日本教職員組合と「新教育」(経験主義の哲学と自由主義・平和主義的な思想)に依拠する教育を改めていく。
昭和三十年の社会科の学習指導要領改正、三十三年の全面改正により、学習指導要領に法的拘束力を持たせ、「道徳の時間」特設を強行、知識の系統を重視した知育、愛国心を喚起する徳育に転換し、中央教育行政当局による上からの規制強化の形で、反共自由主義の方向に大きく舵を切った。
以後、公教育依存=社会の学校化現象が顕著にあらわれてくる。高校進学率は昭和三十年前半40%以下、四十年70%(オール3以下の子どもが高校進学)、五十年90%(オール1の子どもでも何人かは高校進学)に達し、「大部分の子ども」とその親や保護者が、高校進学を求める時代になる。
大学進学率は昭和四十年代後半20%以下、平成五年40%超、平成十七年50%前後と高まっていく。形式上「公教育」の評価が絶対視され、そこを通ったものでなければ、社会人として一人前ではないかのような通念が浸透した。
社会が学校教育に大きく依存しそれなしには機能しなくなる、イリッチの言う「社会の学校化」が進行している。社会それ自体の保持していた自前で人々を教育する私教育体制は崩れ、人々は「学校」という公教育の場で専門家を雇い、場合によって多額の金額を払ってでも子どもをそこに通わせて教育することが普通の姿となった。
「大学」への進学を第一と考えた親や保護者は「私教育」の場を軽視し、全て「公教育」に預けたいと言う心性を強めてきた。これは戦前の流れとほとんど同じで、家庭教育や企業内教育などの社会教育の重要な価値や意味を考えず、「高学歴」をつけさせたいとの主観的希望をもとに「私教育」を犠牲にして「公教育」に委ねる点で、同質である。
「公教育」にこんなに依存してしまって、果たしてこれでよいのだろうか?
「教育」において「公教育」を担う学校教育にしか見ない最近の風潮に疑問を筆者は持つ。むしろ「国民の自己教育」としての家庭教育や社会教育・生涯教育の中心を成す「私教育」の重要性に注目し、その健全な働きを可能にする社会にすべきでなかろうか、と。