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「くらし」と海景、そしてロスコ(雑記)
「海景」
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このシリーズにおける海をどのようであるか、見田宗介が論を開きます。
新しい芸術とは何か?
最も新しい芸術とは何か?
われわれは一〇〇年の間、おそらくは数百年の間、この問いを問いつづけてきた。新しい芸術とは何か?最も新しい芸術とは何か?
けれども今日この問い自体が、何かしら的の中心を射ていないもの、場違いなもの、どうでもよいもの、いくらかはこっけいなもの、あらかじめ失効したもののように、人々に感受されはじめている。少なくとも、「先進」産業諸国の、最も若い世代には、感受されはじめている。「新しいもの」、「最も新しいもの」をいつも追い求めつづける呼吸自体が、いくらかは「古い」もののように感覚されはじめている。この奇妙な逆説は何を兆候しているのだろうか?
人類の増殖率が先鋭にそのピークに達し、急速に折り返して減速に反転するあの分水嶺の、前夜の作品群である。われわれはモダニズムという運動の到達点をそこに見ることができる。
モダニズムの到達点たるロスコ最終作品
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杉本博司『海景』
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杉本博司の『海景』の生命は、あのモダニズムの還元的情熱の消去してゆく意志の究極の到達である作品との対比において明確である。ロスコの最終の作品と『海景』はその構図においても色彩においても一見「同一」であるかに見える。
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差異とは何か。ロスコの絶筆と『海景』との差異は、海景である。二つに分かれた天空と大海である。画面を充溢する大気と水である。そのあらゆる微細な波形と、光と影との変幻である。もう一度肯定された、存在のリーラである。
それは永劫に回帰する時間の、豊穣なる静止である。
ここ数百年にわたる、いや継ぎ継ぎに現れた「新しいもの」をさぐりつづけるモダニズムの頂点の果てから、杉本博司は「永劫に回帰する時間の、豊穣なる静止」である海をみつける旅をつづけているとして、見田は論を結びます。