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私教育の縮小と公教育の拡大

□景色
もし「学校」のない時代を考えると、人は「教育」について何を問題にするか。

——大部分、家庭における、親の子どもに対する教育を問題とするだろう。「親による子どもへの教育=私教育」こそ、もっともその質が問われるもの。しかし、「私教育」は明治以降、徐々に「公教育」に主役を奪われていく。

□本

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『教育史の中の内村鑑三』
安彦忠彦 お茶の水書房 2016年

目次
はじめに
1 明治以来の日本人と日本の教育
2 明治以来の日本の教育と内村鑑三の生い立ち
3 明治中期からの日本の教育と内村鑑三の公教育批判
4 大正期以後の日本の社会教育と内村鑑三の教育観
5 第二次世界大戦後の日本と内村の系譜から見た日本の教育
6 現代の日本社会と内村の系譜から見た日本の教育

□要約
私教育は時代に先んじる教育を行えるが、公教育は公権力とそのもとにある社会体制・政治体制を保持・強化するため、保守的な教育しか行わない。

明治五年に「学制」を公布したときこそ「公権力」自体が近代化への進歩性をもっていたが、十二年に「教学聖旨」が下され、十三年に「改正教育令」が公布されると「儒教的・保守的」な教育へと変わっていく。

明治十九年の森有礼による「学校令」公布、二十三年の「教育勅語」発布により、明治政府が「天皇」の権威によって「公教育」を支配する天皇制国家主義教育の基礎が完成する。

「私教育」に当たる寺子屋や私塾の多くが「公教育」の学校に組み込まれ、それ以外の「私教育」を行なっていた私塾や私立学校の「中等教育」学校にあたるものが、明治十四年の「中学校教則大綱」、十七年の「中学校通則」、十九年の「中学校令」によって「私教育」的な学校から「公教育」学校の一部として再編されていった。

日清戦争で軽工業、日露戦争で重工業、第一次世界大戦で帝国主義が確立し、第二次世界大戦では超国家主義が日本を支配し、教育も全面的にこれに従属し展開されていく。

日清戦争の勝利で得た賠償金によって、義務教育とその後の中等教育や実業教育の分野を拡充整備。明治三十三年の小学校令改正により、四年制義務教育の整備強化と二年生高等小学校の奨励、国語科の創設、文部大臣の教科課程制定権の明確化、三十六年に国定教科書制度が成立。

小学校就学率は着実に上がっていく。明治六年28%、十一年41%、二十年代60%超、三十三年80%超、三十五年90%超。国家主義的な公教育は「国家のため」の教育制度として確固たるものとなる。

「私教育」に任されていた実業教育と女子の中等教育も「公教育」に取り込まれていき、「国風化」と呼ばれる保守的方向に変質していく。

日露戦争の勝利後、「通俗教育」の名のもとにさまざまな社会教育を「公教育」の施策として推進され、大正十二年「国民精神作興ニ関スル詔書」の渙発で社会教化運動が急速に展開。以後、公教育的な社会教育の動きは、平民の活動を基盤に戦時には当然のこととして地域住民の間に浸透し、私教育的な社会教育を抑圧ないし包摂しながら、大正、昭和にかけて第二次世界大戦前の「国民教化的社会教育」に発展していく。

大正六年「兵式体操振興ニ関スル建議」では学校に現役将校による軍事教練が導入、第一次世界大戦後の軍縮会議で除隊された将校を中等学校以上の学校が引き取る大正十四年「陸軍現役将校学校配属令」が出され、公教育内部に軍事教育の中核を形成し、日本の軍国主義化を強力に進める一翼となった。

行き着く先として第二次世界大戦中の国会議員による全国組織「大政翼賛会」があり、全体主義は社会の隅々にまで及び、「公教育」の中核である学校教育内はもとより社会教育においても公教育の支配が徹底され、「私教育」の存在をも許さないような社会状況が作り上げられる。

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