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近代戦士、内村鑑三

□景色
一九三〇年三月、東京にて数日間うち続く賑やかな復興祭が行われた。関東大震災によって一度倒れた大バビロンは、又しても灰燼の中から華々しく起き上がって来た。前にもまさり更に大なるバビロンは打ち建てられた。イルミネーション、花火、饗宴、旗行列、提灯行列、音楽行進、舞踊大会、映画劇、ページエント・・。

然るにちょうどその頃帝都の片ほとりに、騒ぎを余所にした、人知れず一つの厳粛なる場面が展開せられていた。場所は柏木の里。さびしき病床に彼は日本を思い人類を思い、宇宙の完成を思った。いよいよ最後が見えたとき、彼は沈痛なる声をもって福音の万歳と日本国の万歳とを唱えた。

預言者の万歳は日本国現在の堕落に対する神の審判を予想し、更にその後に来るべき永遠の栄光を見透しての万歳であった。

□本

「近代の戦士内村先生」 1930年
『藤井武全集 第十巻』 岩波書店 1972年

□要約
神と霊魂とを抜きにした唯物的の社会主義と、永遠を抜きにした現世的享楽的のモダニズムと、この二つの大きな精神的潮流が東京の街上に洪水のごとく氾濫して、大波小波を挙げつつ渦巻きめぐっている。

如何にして神の前に義しき人であり得ようか。そんなことはどうでも宜しい。それよりも先ず我らにパンを与えよと唯物的社会主義は叫ぶ。罪や潔さに全く無感覚であるのは、動物と少しも異ならない。彼らの慕うところはただ物質のみ。物質を争うに勇敢である。

必ずしも物質万能ではなく、霊魂も神も信じる。けれどもすべてが現生本位。来世永遠を眼中におかず、此世を善くする事、此世を住み心地よき場所にする事、此世の幸福をenjoyする事、それが人生の目的である、自ずから享楽主義に傾かざるを得ないモダニズム。

唯物主義の寒流はシベリアから、享楽主義の暖流はカリフォルニアから、均しくこの国を目指し押し寄せつつある。ヨハネ黙示録十六章十九章、ハルマゲドンの戦いこそ全世界の関ヶ原。これによって真理が永遠に立つかあるいはついに滅びるかが定まる。現代のハルマゲドンはわが日本の東京にあり。

大学頼むに足らず、教会頼むに足らず。然らば誰か、日本を救おうとするものは。この時に当って一人の神の僕があった。彼はキリストの前に召出され、凡ての所有物、優れた才能、大きな野心、約束せられた成功もみな取り上げられた。それらに代えてただ一つ彼に与えられた。「神の言」すなわち聖書。

なんぢの剣をなんぢの腰に佩びよ、ああ英雄よ、
 なんぢの栄光を、なんぢの威厳を。
而してなんぢの威厳をもて勝をえてのりすすめ、
 真理と柔和と正義とのために。
さらばなんぢの右の手はなんぢに教へん、
 恐るべき事どもを。(詩四五の三、四)

彼は勇ましく馬を陣頭に進めた。

始は彼に従う者がほとんどなかった。併し彼は恐れず単騎を以て強敵に当たった。武器は神の言という剣あるのみ。之を揮うて彼は勇敢なる突撃を繰り返した。戦は勿論苦戦の極み。数多の傷を彼は受け、或る時はその心臓の間近さえ痛手を負い、鮮血淋漓として滴った。しかし不思議にも彼は斃れなかった。いつも何者かが来りて彼を支えた。かくて五十年の長い間、彼は全身血みどろになりながら、真理のため、正義のため、然りキリストの十字架の義のために、雄々しくも孤軍奮闘を続けた。

近代戦士、内村鑑三は今や遂に斃れた。バビロンの復興祭の最中、彼は敵の本陣から起こる凱歌を耳にしながら、その石垣の下に屍を曝す。然らば彼の戦は敗北であったか。否。見よ、彼の剣はすでに敵将の胸を貫いている。十字架の立つ所に、社会主義は倒れ享楽主義は亡びざるを得ない。内村鑑三五十年の奮闘によって、近代の世界的怪物どもは既に致命傷を負った。さればこそまさに斃れんとする内村の口から、悲壮なる凱歌が迸り出たのだ。曰く福音万歳、と。

内村は斃れた。戦は勝利。併しながらハルマゲドンの大戦争は未だ終わっていない。私どもは起たざるを得ない。真理のため、十字架の義のため。内村の遺した剣を取上げ、屍を乗り超え、更に前進を続けなければならない。われらの戦はこれから。すなわちここに内村の記念会に当って、私どもは全ての真理の敵にむかい新たに宣戦布告する。

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