『浦島太郎』は理不尽な話だが、実はそうではない側面もある。
挨拶
こんにちは、採用コピーライターのオヤマダです。
先日、バカリズムさんのYouTube動画「昔話に関する案」を見ました。どんな内容かというと、『浦島太郎』という物語のおかしい点についてツッコミを入れて、こういう風に直すべきなんじゃないか?という案を提案するというものです。ちよっと長いのですが、着眼点や改変内容にセンスが光っていて面白いので、興味がある方は見てみてください(笑)
そんな『浦島太郎』なのですが、実は僕自身とはちょっとした因縁がございます。
僕と『浦島太郎』
僕は大学で「伝承文学」という分野を専攻していました。これは、民俗学と文学の中間みたいな学問で、地方にある言い伝えや昔話をもとに、過去にその地域で行なったことを調べ、なぜ、その言い伝えや昔話が伝えられるようになったのか、伝えられていく中で内容が変わっ入ったのか、ということを考察していくという、ロマンには満ち溢れているけど、就職には不利に働きそうな学問でした。
その講義の中で『浦島太郎』を扱うことがあり、真面目とは言えない大学生だった僕はその発表が上手くできず(考察ができなかった)、講義堂で教授から公開処刑のような説教をいただき、まあ、なんというか、トラウマの一つだったりするわけです。
そんなわけで、『浦島太郎』にはちょっと思うところがあり、いつしか自分なりの『浦島太郎』の解釈を語られるようにならなければならないという気持ちがあります。
長々と書いてきましたが、今回は『浦島太郎』に関する僕自身の解釈をつらつらと書かせていただきます。
藤子・F・不二雄先生のSF短編『ミノタウロスの皿』
ちょっと話が飛びます。
『ドラえもん』の作者としておなじみの藤子・F・不二雄先生は、SF短編の名手としても有名です。そんな先生の作品に『ミノタウロスの皿』という作品があります。この作品が実に面白いので、ストーリーをちょっとだけご紹介します。
これは、ある宇宙飛行士の青年が宇宙船トラブルのため未開の星に不時着するところからはじまる話です。
なんとか最後の通信で地球に救難信号を送ることができたのですが、救助隊が来るまで23日かかると言います。そのため、青年は未開の地でサバイバルをしなければならない羽目になるのでした。ところがこの星には人間が存在し、青年は美しい少女ミノアに助けられます。ミノアと暮らす日々は幸せなものでしたが、食事のことを「エサ」といったり、ミノアや同じ住居で住む人たちは少し変わっているのでした。
そんなある日、ミノアは森でちょっとしたケガをしてしまいます。そのことでパニックになるミノア。急いで住居に連れて帰ると、他の人はお医者さんを呼んだといいます。扉をノックする音が響いて現れたのは、牛の顔をした怪物でした。発狂する青年。そこで、この惑星についてくわしいことが分かるのでした。
実は、この惑星はズン類というウシ型の知的生命体が支配する星で、人間はズン類の家畜だったのです。つまり、集団住宅と思われたものは家畜小屋であり、人間たちはズン類からエサを与えられ、食料になる運命なのでした。主人公は「なんと残酷な!」と激高するのですが、ズン類は「私たちは人間を尊重しているし、彼らもそれで納得している」と言います。事実、この星の人間たちはみな、ズン類の加護のもと暮らしていること、そして時が来たら食料になることを受け入れているのです。
しかも、ミノアは大祭の祝宴の大皿に乗ることが決まっていました。それはつまり、ズン類が集まる集会で、丸ごと調理され、みんなから食べられることを意味します。青年は必至でミノアを説得しますが、当のミノアは「大祭の祝宴の大皿に選ばれるのは名誉なことだ」と言ってききません。ミノアのことを愛し始めていた青年は、ズン類の関係各所にまわり、なんとかミノアを助けようとするのですが、ズン類には話が通じません。そして、ミノアたち人間たちにも、理解が得られないのです。
祝祭当日、青年は銃を片手にミノアを強奪する覚悟を決めますが、そんな青年の前に現れたのは、大きな皿に盛られた野菜の上で、美しい裸身をさらしながら「私のことを美味しく食べてね」というミノアでした。青年は叫びます。「頼むから、助けてくれ、と言ってくれ!」。しかし、その声はミノアには届かず、ミノアは観衆の声援に笑顔を振りまき、祝祭のステージへと消えていくのでした……。
別世界には別の常識と価値観がある
『ミノタウロスの皿』は、地球における人間と家畜である牛の関係が入れ替わった惑星のお話です。そこでは、私たちの常識が一切通用しません。
牛の生物ズン類は、「私たちは人間を尊重しているし、彼らもそれで納得している」と言います。しかしそれは、ズン類が勝手に言っているだけで、よその星から来た青年にとっては自分勝手な綺麗事でしかありません。しかし、この星の人類はその考えに納得しており、この星ではその考え方が正しいのです。当時に、僕たち地球の人間が、家畜である牛のことをどれだけ優しく扱おうとも、よその星から来た牛型異星人にとっては、自分勝手な綺麗事にしか聞こえないでしょう。
このように、違う世界からやってきた人たちには、別の常識と価値観が存在しているものであり、相互理解ができない場合、相手にその気がなくても「こんなことをされた!不愉快だ!」というトラブルが起きてしまうことは往々にしてあり得る話だと思うわけです。
竜宮城に住む人たちの常識と価値観
話は『浦島太郎』に戻ります。
竜宮城は、海の中に存在し、しかも地上と時の流れが異なります。それはつまり、地上に住む僕たち人類とは異なる役割を持った生命体であり、常識も価値観も異なる存在と考えたほうが自然でしょう。
何が言いたいかというと、『浦島太郎』は「常識と価値観が異なる生命体が接触したことによって起きた悲劇」という話ではないかということです。
僕たちからすると、時間の流れが異なる竜宮城でのおもてなしの日々や玉手箱というブービートラップは、乙姫様や亀の悪意しか感じないわけですが、こういう考えかたもできると思います。
不老不死の身体を持つ竜宮城の人たちにとって、地上の時間の流れは些末な問題だった。ただし、地上に生きる人にとっての集団心理(みんなといっしょであることが幸せ)については多少知識があった。竜宮城でのおもてなしは本心からのお礼であり、玉手箱も善意として渡している。しかし、彼らは人間の寿命の短さや急に老いること、そして知り合いが誰もいない孤独に対する精神的苦痛の大きさは理解していなかった。
このように考えると、つじつまが合ってくるというか、理解できるようになるというか、『浦島太郎』はSFとして完成度が高い物語なんじゃないか?という新たな解釈ができるわけです。
日本には『竹取物語』という世界最古のSF小説と言われる物語があります。後世に残る物語には残るだけの理由があると言われています。日本は、海外のように強い宗教観にさらされることなく物語が残りやすい環境だったことも影響しているのかもしれません。
もしかしたら、大昔に存在した超文明の異星人による干渉に起きた出来事が、時の権力者の威光や宗教の流布に利用されることなく、「実際に起こった不思議な出来事を伝えていく」という機能に乗っかったことで、SF要素が強い物語になったとも考えられます。
さいごに
いろいろ書いてきたのですが。
人間というのは自分の尺度で物事を測って理解しようとする習性があります。でも、役割や視座が違う人には別の常識や価値観が存在しており、それを自分の尺度だけで理解することには無理があります。相手の役割や視座や価値観を知る必要がある。
ということを言いたいのでした。
経営者は「なぜ社員は経営者視点を持てないのか!」と怒ったりしますが、一般社員の給与でひと月生活をしてみれば、経営者視点を持つ努力に価値を感じないことが分かるかもしれません。こんな風に、世の中にはいろいろなコミュニケーション不成立事件が起きているわけです。
みなさんも、「理解できない!」「頭がおかしい!」と思う人間が身近にいるかもしれません。しかし、彼や彼女はモンスターなのではなく、彼や彼女の役割や視座や価値観で行動しているだけであり、そこを知ることで理解が深まり、対話が可能になることもあると僕は思います。
今回も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました!