絶対など無い・・・理性も天皇も諸行無常なのだ。
より
上記文抜粋
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カルトの何が悪いのか?
■人が自立しない。
東洋は福沢諭吉ですらも、自立の精神を履き違えて来た。
自立とは自活でも自主存立でもない。人権のことである。他者を尊重して、自らも尊重され共に生きられることこそが自立である。自立とは他人も自分と同様に立っている状態の事で、自分だけが立っている状態の事では無いのだ。自分の人権が尊重されると言うことは、同時に他人の人権も尊重されなければ破綻する。この両立の範囲内で平衡することが、自立なのである。
現代日本社会は何処でどう間違えたのか、利得の最大化の為に他人を手篭めにすることばかりを考えている。大企業や警察や統治機構に過大な期待を寄せ、強大化を是とし、実のない安心だけを拠り所とする。全体主義化と揶揄された物だ。神輿の頂点に人権外の存在を置いて、その元に平等を作ろうとするがその平等は常に失敗する。何故なら、少なくともひとりは犠牲になっているから。この犠牲者が、そこ此処に現れ、長い時間の間日増しに増殖して来たのが今の日本だ。
この精神構造の元では、どんな花も枯れる。
ガバナンスがこんな状態なので、人権は揺らぎ、人々は安心を得る為に、日々空疎な仲間作りに勤しまざるを得なくなる。
宮台真司は間違っている。新宗教は宗教では無い。平衡を維持して自立した哲学が宗教なのである。故にただの布教活動は宗教では無い。宗教活動と呼ばれているものは、単なる仲間づくり、結社である。結社は、人の生活基盤を揺るがす行動を取った場合、罰せられなければならない。
反セクト法は、人権保護を目的として存立し、今では企業活動や女性蔑視にもその保護対象を広げている。
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抜粋終わり
天皇は、ただのカルト宗教である。
その人権外のモノが絶対になることで、一種の「ヒエラルキー」が生まれ、平等など全くの嘘なのだ。
一つの別格を決める自体が「平等」ではないのだ。
保守・右翼は、「天皇」を認めることで、妄想と発狂しか存在しない。
より
上記文抜粋
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信仰の成長を止めるもの
真言密教に入門する修行者は四種心を発こすこととされている。
その中に、勝義心(しょうぎしん)といって、勝れた教えを求める心を持つことが三番目に説かれている。
これは密教にかぎらず重要で、この心がないと例えばカルト宗教などにはまってもそこから出ることはできない。視野がせまくなり、自分で考えて判断することが困難になる。いつまでたっても成長しない。
同時に、ちょっとかじって、わかったつもりで、すぐにやめるのも問題である。
もちろん危険だと感じるときは、自分のセンサーが反応しているので、すぐに離れるとよい。
仏教は律によって反社会的なことはしない定めである。これは密教といえども同じ。
一番中途半端なのが「わかってる」「しってる」「やっている」である。総じて慢心である。これが信仰の成長を止める。
どのような信仰もそうであるが、「無知の姿勢」が大切。
たまに指導していると「それはわかってます。やってます」という人がいるが、正しく修していればそれなりの結果はでるものである。うまくいってなければ何らかの問題があるのだ。
現代は情報社会だからすぐに情報が入る。密教もしかり。しかし、それが正しいかは別である。ネットを見ていると、たまにお坊さん?でも、人心を惑わす怪しい情報を垂れ流ししているのを見聞する。要注意である。
そして、なんでもすぐにものになるわけではない。
密教だけとっても、一生かけて(いやなんども転生して)修行し学ぶものだ。
わたしでも同じ修法の次第の伝授を何度も受けている。それでようやく、少しつかめたかなと思う程度である(もちろん愚鈍だからだが(笑))
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抜粋終わり
保守派は「伝統」「天皇」を絶対視する。
リベラルは、「理性」を絶対視する。
それは、停滞と堕落と死滅への道でしかない。
ただ、自己改悟・自己研鑽・自己肯定のひたすらな研鑽だけで、事実を謙虚に受け入れることだけが、
その「伝統」や「理性」を偶像化して破滅すること免れ得、それらを本当に輝かせると思う。
ましてや「天皇」や「国家」や「イデオロギー」を偶像化・絶対化するのは、カルトなのだ。
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