なんか気になる、宗教とかの基礎の話の。 






昔からやっていた儒教祭祀を捨てられないから、でも、儒教で先祖は五代まで。あと金がかかる。先祖が苦しんでると言うのは仏教の先祖供養の亜流。整合性がない。だのに、受け入れてしまうのは、自分の人生がうまくいかないことを「苦しんでる先祖のせい」にできるから。それで金を捧げてよくなるのかというと、認知も行動も変わってないのにうまくいかない。でも、信仰が足りん、お前の背負っているものが重いからと言われるとまた金を積んでしまう。嗚呼!

これって、つまるところ

「通俗道徳での、「努力即成功」ができないと、悪徳の烙印を押される」ってことから、逃げるため・あるいはその無謀な迫害からの脱出のために、「先祖のために自分が不幸」って決めつけることで、「自己責任論」で掛かる、不当な弾劾からの自責から逃れれるので・・・


第一に「先祖崇拝」は、五代前からは「先祖代々」で一括して処理できると考えるのが、儒教の考え。

でも「チャンポン・儒教もどき」では、「延々と先祖がたたる」みたいになっている。

それも「韓国の宗教事情を知ると、文化の異なる国に占領されると文化は内部崩壊するのだなぁとしみじみする。」

てことで、日本も同じなんだよね。

「天皇」とかいう「仏教を切り捨てた、和風カトリック」と、戦後の米軍の植民地化~プロテスタンで、地味~に、神仏習合的日本人の信仰が破壊され切ってます。






神道が、ながく「衰退していた」のは、それの修法なり信仰法が、「過酷」だったので、
「そんなの出来ない」ってことで、神祇不拝ってなったってわかるな。

天台宗・真言宗では「大変すぎる」から、鎌倉新仏教が続出したってのと同じ。

真言律宗でも「一部の戒だけでも守ってりゃ、在家はOK」だもの。

で、神道は明治以降に「バチカン教」と習合してしまって、神道は消滅したようなものになった・・



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