改めて、般若心経・・。

上記文抜粋
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『般若心経』の本はいっぱいあるけど、お経の解説っていうよりは『般若心経』をだしにして自分の人生論をかたってるものがけっこうあるみたいだ。そういうものはともかくとしても、『般若心経』は『大般若経』六百巻の要約だとかいわれてて、「心」は「真髄、核心」っていう意味だって説明されることがおおい。それとか「こころ」のお経とかいわれることもある。

でも、『般若心経』の「心」は「真髄、核心」でも「こころ」でもなくて、ほんとは最後にでてくる真言[しんごん](かんたんにいえば呪文)のことをさしてる。

これについて、ふるくは空海の『般若心経秘鍵[ひけん]』にかいてある。

大般若波羅蜜多心経者。即是大般若菩薩大心真言三摩地法門。大般若波羅蜜多心経といつぱ、即ち是れ大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり。『大般若波羅蜜多心経』とは大ハンニャ・ボサツの大心真言のめい想のおしえである。
言般若心者。此菩薩有身心等陀羅尼。是経真言即大心咒。依此心真言得般若心名。般若心と言つぱ、此の菩薩に身心等の陀羅尼有り。是の経の真言は即ち大心咒なり。此の心真言に依つて般若心の名を得。「般若心」というのは、このボサツに身心などのダラニがあり、この経の真言は大心真言であって、この心真言から「般若心」という題名がつけられているのである。


さらに、佐保田鶴治『般若心経の真実』(人文書院、1982)でも、空海の立場にちかいっていってるみたいに、『般若心経』はハンニャ思想の要約とかじゃなくて、真言をとくのが目的だっていってる。

般若(智恵)の内容―― 空の説明がなされております。一般にこの部分がこのお経の中心と考えられておりまして、先生方はここの部分の説明に力こぶを入れて、縦横無尽に解説されるのでありますが、それは見当違いも甚しいのでございます。この部分は大乗仏教一般にとりましては大切な理論の展開といえましょうが、心経が書かれたそもそものねらいはここにあるのでは無いのでございます。空の理論を展開するのは金剛般若経あたりの役目でありまして、今さらこんなちっぽけなお経を説く必要がどこにありましょうか。
明呪(マントラ)の提示―― この部分こそ、このお経の説かれた当の目的でございまして、このお経の作者はこの明呪を信心あつい仏教徒の大衆に唱えてもらうことを念願としたのでございます。その明呪が経の最後に提示されることによりまして、このお経の経題の趣旨は明らかになっているのでございます。この点がハッキリつかめておりませんでは、いかなる名論卓説も、心経の解説としては、迷論憶説になってしまうのでございます。般若心経というお経は密教のお経でございます。顕教たる大般若系統のお経ではございません。


こういうのはあくまで密教的な独特の解釈にすぎないっておもってたんだけど、福井文雅『般若心経の歴史的研究』(春秋社、1987)をよんで、そうじゃないってことをおしえられた。

般若心経は、インドから伝来した三世紀頃から唐~五代頃までは、招福除災の呪文の経典として専ら中国社会には受容されていたのであるが、一〇世紀宋代あたりを境い目にして、大乗仏教の心髄である空観の哲理を説く経典であるとする解釈が主流となり、その解釈が現在の漢字文化圏に定着しているのである。
 古来、般若心経とは何かについては、二説が対立していた。その一は、般若心経とは大乗仏教の心髄を示す経典、或いは大般若経六〇〇巻の核心を述べる(顕教の)経典、と見なす説であり、その二は、大般若菩薩の心真言を説く(密教の)経典、とする説である。前者は、空観こそが般若心経の中心テーマと見る考えであり、後者は、空観は、最後の神呪の功能を増す為の序論と見る立場である。そのどちらの説が正しいかを同時に論ずれば、二者択一でどちらかを是とし、どちらかを非としなければならない。しかし、どちらにも自らを是とするそれなりの根拠は具備しているので、両説の論難は果てしなく、現在にまで続いていたのである。
 しかし、この問題も歴史的・社会的に見てみるならば、後者の説が先に在って、時代の推移、社会の要請と共に前者の説が生まれ、それが次第に後者を圧倒して今日に到った結果、現在では二説が並行し、般若心経の解釈について、最初から二説が同時に在ったかのような状況になって来た推移が良く判るのである。インドでは陀羅尼の役割の経典、つまり、災害を除いてくれる仏典として専ら考えられていたのである。唐代では、般若心経は呪文の経典、具体的に詳しく言えば、「般若波羅蜜多の密呪を中心とする経典」として主には見られていたことが明らかになった。つまり、その見方は、(…)インドから始まって魏晋南北朝を通じる伝統的な解釈の延長線上にあるわけである。
 しかしながら、現在ではそれとは違って、般若心経は『大般若経』六〇〇巻の真髄であり、大乗空観の核心を説くからこそ「心経」と略して呼ばれるのだ、と一般には理解されているようである。「心経」は、インド以来の伝承ではダラニを指す語に当ること、「心真言」の心、時には「心」一字でダラニを指すことがあったこと、その場合の「心」はダラニの宿る hṛdaya (心臓)であること、従って、「心経」の心字には、本来の意味としては〝核心〟とか〝真髄〟とかの抽象的理念的意味は無いこと(…)。般若心経梵本には、「経」の原語に当たる sūtra は、どの写本にも附いてはいないのである。つまり、漢訳すれば「般若心」だけで終るはずの文献なのであって、事実(…)「般若心」とだけ呼んでいる場合も中国にあるのであり、「経」は中国で後から附けられたのである。
 「般若心」とは「般若の心」を意味し、この場合の「心」は(…)ダラニ、神呪の意味である。フリダヤの後に sūtra スートラ(経)の語の附いた写本が皆無に近いことは、般若心経の性格を考える時に、ますます暗示的である。すなわち、もしもスートラが附いていれば、フリダヤはその〝経の核心〟という意味になるはずだからである。フリダヤの後に何も続かず、フリダヤで終っている文は、多くが呪文・陀羅尼・真言の類である。それが故に、漢訳で「~心経」で終る経典(例えば、般若心経)は、殆どが呪文の経典、(表現は厳密性を欠くかもしれないが、大きく分ければ)密教系に属することになる。〝経〟字が元来は附いていないことから考えてみても「心経」の本義はダラニ、つまり呪文にすぎないこと、明らかなのである。梵・漢の比較研究からは、このような結論しか出てこない。
 ところが、現在では、中国でも日本でも、むしろ〝核心の経典〟の意味で理解されている。それでは、このような解釈は、何時から、誰が、何故、どのように打ち出したものなのであろうか。
 私は、玄奘三蔵が hṛdaya フリダヤを「心」と直訳した段階で、そのような解釈を容れる可能性が胚胎した、と考えるのである。
 鳩摩羅什訳は「摩訶般若波羅蜜大明呪経」である。(…)羅什や支謙は意訳したのであったが、それを玄奘は直訳した。というよりも漢語に置き直したにすぎなかったのである。
 (…)他の訳者達は「呪経」とか「真言経」と訳している経典を、玄奘だけは「心経」と訳し直す傾向があったのである。
 それでは、何故そのように訳し直したのであろうか。ここでかなり大胆な判断を下さねばならないのであるが、玄奘は、フリダヤが「心」の意味であることは知っていても、それが〝神呪〟を意味するとは知らなかったのではなかろうか。 しかし、その当否はともかくとして、確実に残った事実は、他の訳経者が「呪経」とか「真言経」とか訳した箇所を、玄奘が「心経」と訳したこと。そしてまた、その「心」を玄奘は法相唯識の立場から説明してみせたこと、この二点である。この二つの事実の影響力は、その後の般若心経観に決定的であったように見える。すなわち、一度「心」という漢語に訳されると、原語本来の意味とは関わりなく、その「心」という漢語だけが独り歩きするようになる。(…)漢語の「心」には〝神呪〟の意味は無いから、般若心経の本義はすぐに忘れられてしまうのである。 般若心経は、唐代では〝般若波羅蜜多の密呪を中心とする経典〟として扱われていた。いわば密教経典の一と見なされていたわけである。密呪を中心に、経文は後半部分が重視されていたと言えよう。そのような理解の在り方を「密呪中心の般若心経観」と仮に名づけるならば、経文前半の空観を中心とする経典だとする現今の解釈は、「色即是空の般若心経観」と呼べようか。 要するに「心経」という通称にしても、現在有力な空観中心の般若心経観にしても、すべて明代以降になって一般化したものである。従って、現在の解釈や「心経」という通称を手がかりとして唐・宋の般若心経について云々することは、思想史的には逆行する研究方法ということになり、そこには様々の誤解や牽強付会の説が生じる結果となる。誤解の一例としては、密呪を後世の附加と見る解釈(証拠は無い)があるが、それも、余りにも「色即是空」の文に囚われ、その存在を合理的に説明しようとしたための結果で、歴史の流れに従わぬものと言えよう。


空海がいってるのは勝手な解釈じゃなくて、本来の解釈がもとになってるってことになるだろう。それに、その解釈はインド以来のもので、いま一般的になってるのはあとの時代になってできた解釈だったわけだ。


『般若心経』の漢文の翻訳はいくつかあるんだけど、玄奘[げんじょう]つまり有名な三蔵法師が訳した『般若波羅蜜多心経[はんにゃはらみったしんぎょう]』があっちこっちでよまれてる『仏説摩訶般若波羅蜜多心経[ぶっせつ まかはんにゃはらみったしんぎょう]』にいちばんちかい。本文のちがいとしては玄奘訳のほうに「一切」の2文字がないだけだ。

玄奘の翻訳よりふるいものとして鳩摩羅什[くまらじゅう](クマーラジーバ)が訳した『摩訶般若波羅蜜大明咒経[まかはんにゃはらみつだいみょうしゅきょう]』がある。『般若心経の歴史的研究』でもふれてるけど、この題名をみると、玄奘が「心」って直訳したとこが「大明咒」になってて、「明咒」は真言のことだから、このことからも「心」は真言のことだっていうのがわかる。

「心」って直訳されたのは हृदय hṛdaya [フリダヤ]で、もともとの意味は「心臓」だ(漢字の「心」ももとは心臓の絵)。これはインド・ヨーロッパ語族に共通の語源からうまれた単語で、ギリシャ語の καρδία [kardíaː カルディアー]、ラテン語の cor [コル](語幹は cord-)、イタリア語の cuore [クォーレ]、フランス語の cœur [クール]、英語の heart、ドイツ語の Herz [ヘルツ]とかはみんな hṛdaya とおんなじ語源だし、基本の意味ももちろんおんなじだ。

このフリダヤが真言とかダラニをさす例は密教経典にたくさんある。真言とダラニはかんたんにいえばおんなじもので、ダラニが心臓にやどるっていうのが『般若心経の歴史的研究』にでてきた。そういえば、『金剛頂経』には「フリダヤ(心臓)からフリダヤ(心真言)をだした」っていうのがなん度もでてくる。

『般若心経の新世界』には、『般若心経』が『大般若経』の要約だとかいうのは「誤りではないが、正確ではない」ってかいてある。たしかにハンニャ思想の要約っていえる内容が『般若心経』にはある。このへんのことを、渡辺照宏『お経の話』(岩波新書、1967)はこう説明してる。

 『般若心経』はもともと『大般若』の要文を抽出して組み立てたものと見られる。なかでも「菩薩行深般若波羅蜜多時」の一句は『大般若』にたびたび繰り返されているが、それ以外に同文または類似の文としてつぎのような個所を指摘することができる。大正蔵のページを示す。
 五・二二中(空中無色無受想行識)。二四一中下(色即是空)。五六八中(是大神咒)。六・五五三中以下(無色無受想行識……無無明)。七・一一中下、一四上(色即是空空即是色、八・二二一中下、二二三上参照)。三一〇上(不恐不怖無疑無滞……無罜礙)。三一二下(過去現在未来諸仏皆依……般若波羅蜜多出生無上正等菩提=四四六上)。七七四中(是大神咒、八・二八三中、五四三中参照)。九三七上中(超一切苦……真実遠離顚倒)。
 これと比較してみると『心経』にあって『大般若』には見いだされない要素は冒頭と末尾とである。『大般若』ではボサツの修行一般について述べるが『心経』では〝観自在菩薩〟ひとりの問題に焦点をあてている。
 末尾に掲げる「掲諦……」という呪文は『陀羅尼集経』巻三(大正蔵一八・八〇七中)に載せてある『般若波羅蜜多大心経』の中のものと同じである。『大般若』においては〝プラジニャー・パーラミター〟はその信者を保護するからそれ自体が一種の呪術である、というのであるが、『心経』においては一般的ボサツを観自在に置き換えたのと同様に、ここでも特定の呪文を示す。それが『大般若』と『心経』との差異である。


『大般若経』の要約にあたる内容は実際にあるし、その部分が分量としてはいちばんおおいんだけど、そこを『般若心経』の中心的な内容だって解釈しちゃったら、そのあとにでてくる真言については説明できないし、題名の「心」についてもまちがった解釈をすることになる。そういう解釈をするひとにとっては真言は邪魔だから、真言の部分は「後世の附加」だって根拠もなしにいいはる説もあることが『般若心経の歴史的研究』にかいてあった。「後世の附加」でかたづけちゃうんだったら、なんとでもいえる。

ハンニャ思想の要約みたいなとこは、そのあとの真言の導入の部分といっしょになって、けっきょくは真言の説明がき、効能がきみたいなものだろう。

ところで、「心」の意味はこのくらいでいいとして、ハンニャハラミッタ(またはハンニャハラミツ)のほうもすこし説明しておこう。「般若波羅蜜多(または般若波羅蜜)」っていうのはただ発音をうつしただけで漢字に意味はない。もとのことばはサンスクリット語の प्रज्ञापारमिता prajñā-pāramitā [プラジュニャー・パーラミター]で(ただし「般若」はパーリ語の paññā [パンニャー]とかの俗語のかたちがもとになってるっていわれてる)、「知恵の完成」って訳せる。大乗のボサツの修行のひとつだ。

prajñā が「知恵」なのはいいとして、pāramitā が「完成」だっていうのは伝統的解釈とはちょっとちがう。っていうか、仏教の伝統としては pāramitā に民間語源説的な解釈をしてきた(「完成」っていうほうの説明も仏教のなかにあることはある)。pāramitā は परम parama [パラマ](最高の)からうまれた पारमी pāramī [パーラミー](完成)っていう名詞に抽象名詞の語尾 ता -tā がついたものなんだけど(このばあい -ī はみじかくなる)、これを पारम् pāram [パーラム](むこう岸に)+इत ita (「ゆく、到達する」っていう動詞の過去分詞)+ता -tā (抽象名詞の語尾)で、pāramitatā の -ta- が省略されたものってかんがえて、「むこう岸(さとり)に到達したこと」って解釈した。その意味で「到彼岸」って訳される。

『般若心経』のハンニャハラミッタはまずは真言の名まえで、「般若波羅蜜多心」は「ハンニャハラミッタっていうの名まえの真言」っていうことになる。だから、最初の「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」の「般若波羅蜜多」にしても、ボサツの修行としていわれてる一般のハンニャハラミッタっていうより、ハンニャハラミッタっていう真言をとなえる修行のことらしい。

この真言はハンニャ(ハラミッタ)・ボサツの真言で、ハンニャ(ハラミッタ)は女性のボサツの名まえでもある。女性なのは prajñā-pāramitā も prajñā も女性名詞だってことと当然関係ある。ハンニャ(ハラミッタ)っていう仏の知恵を神格化したものだっていうこともできる。ハンニャの知恵によって さとりをひらいてブッダになるから、その知恵がブッダをうみだす母ってことで、ハンニャ(ハラミッタ)は仏母[ぶつも]ともいわれてる。女性のボサツの名まえとしては -pāramitā の -tā は抽象名詞の語尾じゃなくて、過去分詞 ita の女性形 itā っていうふうに解釈することもできるだろう。

ハインリッヒ・ツィンマーは『インド・アート[神話と象徴]』(宮元啓一訳、せりか書房)のなかでハンニャハラミッタのことを「ソフィアの仏教版」っていってる。ソフィアっていうのはギリシャ語の σοφία [sopʰíaː ソピアー]で、かんたんにいえば神の知恵のことなんだけど、上智大学(Sophia University)の「上智」もこのソフィアだし、イスタンブールの聖ソフィア大聖堂みたいにソフィアの名まえをつけてる教会もある。キリスト教以外でもいろいろでてくるし、神格化されて女神だったりもする。

で、はなしはここでおわってもいいんだけど、「心」が真言のことだっていっときながら、その真言についてなんにも説明しないっていうのもどうかとおもうから、最後にその真言についてもふれておこう。いくつか解釈があるから、それを紹介しておくことにする。

『般若心経』の最後にでてくる真言は、

掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提 娑婆訶


っていうもので(本によっては漢字にこまかいちがいがある)、発音をうつしただけだから漢字に意味はない。

ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそーぎゃーてー ぼーじー そわかー


ってよまれてる。その原文はこういうものだ。

गते गते पारगते पारसंगते बोधि स्वाहा॥
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā∥
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スワーハー


中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫、1960)はふたつの訳をあげてる。ひとつは、「gate 以下の四語は恐らく gatā などという女性単数の呼格(vocative)であろう。完全な智慧(prajñāpāramitā)を女性的原理とみなして呼びかけたのであろうと解せられる。bodhi も呼格である」「スヴァーハーは、願いの成就を祈って、咒の最後に唱える秘語である」ってことで、

往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。


って訳してて、もうひとつは、「gate を於格(locative)に解すると、次のようにも訳し得る」ってことで(於格は処格ともいう)、

往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー。


って訳してる。「ともかくいずれにしても pāramitā(到彼岸)という語の通俗語源解釈にしたがっているのである」。

渡辺照宏『お経の話』は、(-)gate をマガダ方言の男性単数主格、bodhi を対格ってかんがえて、

到れり、到れり、彼岸に到れり、彼岸に到着せり、菩提に。めでたし


って訳してる。菩提[ぼだい]は bodhi の発音をうつしたことばで「さとり」って意味だ(ほかの本に収録したこのひとの訳は「悟りに」になってるらしい)。

佐保田鶴治『般若心経の真実』は、(-)gate は女性呼格で bodhi を形容してて、bodhi も呼格でハンニャ・ボサツの別名ってかんがえて、

至りたもうた尊妃、至りたもうた尊妃、彼岸に至りたもうた尊妃、彼岸に至り終わられた尊妃にまします菩提[ボーディ]ボサツさま、わが献げものをご嘉納あれ!


って訳してる(ルビは[ ]にいれた)。

ここまでのものはみんな (-)gate を「ゆく」って意味の動詞の過去分詞ってかんがえてる。分詞は形容詞の一種で、形容詞は名詞としてつかわれることもある。

こういうのとはちがう解釈として、田久保周譽『解説 般若心経』(平河出版社、1983)だと、gate を「ゆくこと、道」って意味の女性名詞 gati の単数呼格だってかんがえて、これを第一の解釈としてあげてる。この解釈にもとづいた翻訳がこの本にはいくつかのってるんだけど、それはこういうものだ。

教への道よ、教への道よ、彼の岸に至る教への道よ、彼の岸に至るよき教への道よ、すなわち仏智よ、究竟せよ。行道よ、行道よ、彼岸に至る行道よ、彼岸に至るよき行道よ、さとりの智慧よ、成就してあれ。道よ、道よ、彼岸に至る道よ、彼岸に至るよき道よ、菩提よ、満足してあれ。


それから第二の解釈としてこの本には過去分詞としての解釈ものってる。gate は男性単数呼格で bodhi を形容してて、bodhi は男性名詞の単数呼格だってことで(bodhi は「女性活用する場合もある」ともかいてある)、

到達せるものよ、到達せるものよ、彼の岸に到達せるものよ、彼の岸に到達し終れるものよ、菩提よ、成就してあれ。


って訳してるんだけど、gate を男性単数呼格ってかんがえるのに俗語形がどうのこうのって説明してる。そんなこといわなきゃいけないのは bodhi を男性名詞ってかんがえてるからで、ほかのひとみたいに女性名詞ってかんがえれば、gate が女性単数呼格なのは文法どおりなんだから、それでいいはずなんだけど。

金岡秀友校注『般若心経』(講談社文庫)によると、マックス・ミュラーはこう訳してるらしい。

O wisdom, Gone, Gone, Gone to the other shore, landed at the other shore, svāhā!


F. C. Happold “Mysticism: A Study and an Anthology” (Penguin Books)にのってる Edward Conze の『般若心経』の英語訳 “The Heart Sutra” だとこうなってる。

Gone, Gone, Gone beyond, Gone altogether beyond, O what an awakening, All Hail!


Lex Hixon “Mother of the Buddhas: Meditation on the Prajnaparamita Sutra” (Quest Books)はけっこう意訳してる。

Pure presence is transcending, ever transcending, transcending transcendence, transcending even the transcendence of transcendence. It is total awakeness. It is suchness.

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抜粋終わり

改めて、なるほど・・


心経は、「密教経典」で、さらに「読む・読経だけでも、効験がある」ってのは、成立の経過から見ても、改めて「正解」だったのだ。



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