改めて、般若心経・・。
上記文抜粋
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『般若心経』の本はいっぱいあるけど、お経の解説っていうよりは『般若心経』をだしにして自分の人生論をかたってるものがけっこうあるみたいだ。そういうものはともかくとしても、『般若心経』は『大般若経』六百巻の要約だとかいわれてて、「心」は「真髄、核心」っていう意味だって説明されることがおおい。それとか「こころ」のお経とかいわれることもある。
でも、『般若心経』の「心」は「真髄、核心」でも「こころ」でもなくて、ほんとは最後にでてくる真言[しんごん](かんたんにいえば呪文)のことをさしてる。
これについて、ふるくは空海の『般若心経秘鍵[ひけん]』にかいてある。
さらに、佐保田鶴治『般若心経の真実』(人文書院、1982)でも、空海の立場にちかいっていってるみたいに、『般若心経』はハンニャ思想の要約とかじゃなくて、真言をとくのが目的だっていってる。
こういうのはあくまで密教的な独特の解釈にすぎないっておもってたんだけど、福井文雅『般若心経の歴史的研究』(春秋社、1987)をよんで、そうじゃないってことをおしえられた。
空海がいってるのは勝手な解釈じゃなくて、本来の解釈がもとになってるってことになるだろう。それに、その解釈はインド以来のもので、いま一般的になってるのはあとの時代になってできた解釈だったわけだ。
『般若心経』の漢文の翻訳はいくつかあるんだけど、玄奘[げんじょう]つまり有名な三蔵法師が訳した『般若波羅蜜多心経[はんにゃはらみったしんぎょう]』があっちこっちでよまれてる『仏説摩訶般若波羅蜜多心経[ぶっせつ まかはんにゃはらみったしんぎょう]』にいちばんちかい。本文のちがいとしては玄奘訳のほうに「一切」の2文字がないだけだ。
玄奘の翻訳よりふるいものとして鳩摩羅什[くまらじゅう](クマーラジーバ)が訳した『摩訶般若波羅蜜大明咒経[まかはんにゃはらみつだいみょうしゅきょう]』がある。『般若心経の歴史的研究』でもふれてるけど、この題名をみると、玄奘が「心」って直訳したとこが「大明咒」になってて、「明咒」は真言のことだから、このことからも「心」は真言のことだっていうのがわかる。
「心」って直訳されたのは हृदय hṛdaya [フリダヤ]で、もともとの意味は「心臓」だ(漢字の「心」ももとは心臓の絵)。これはインド・ヨーロッパ語族に共通の語源からうまれた単語で、ギリシャ語の καρδία [kardíaː カルディアー]、ラテン語の cor [コル](語幹は cord-)、イタリア語の cuore [クォーレ]、フランス語の cœur [クール]、英語の heart、ドイツ語の Herz [ヘルツ]とかはみんな hṛdaya とおんなじ語源だし、基本の意味ももちろんおんなじだ。
このフリダヤが真言とかダラニをさす例は密教経典にたくさんある。真言とダラニはかんたんにいえばおんなじもので、ダラニが心臓にやどるっていうのが『般若心経の歴史的研究』にでてきた。そういえば、『金剛頂経』には「フリダヤ(心臓)からフリダヤ(心真言)をだした」っていうのがなん度もでてくる。
『般若心経の新世界』には、『般若心経』が『大般若経』の要約だとかいうのは「誤りではないが、正確ではない」ってかいてある。たしかにハンニャ思想の要約っていえる内容が『般若心経』にはある。このへんのことを、渡辺照宏『お経の話』(岩波新書、1967)はこう説明してる。
『大般若経』の要約にあたる内容は実際にあるし、その部分が分量としてはいちばんおおいんだけど、そこを『般若心経』の中心的な内容だって解釈しちゃったら、そのあとにでてくる真言については説明できないし、題名の「心」についてもまちがった解釈をすることになる。そういう解釈をするひとにとっては真言は邪魔だから、真言の部分は「後世の附加」だって根拠もなしにいいはる説もあることが『般若心経の歴史的研究』にかいてあった。「後世の附加」でかたづけちゃうんだったら、なんとでもいえる。
ハンニャ思想の要約みたいなとこは、そのあとの真言の導入の部分といっしょになって、けっきょくは真言の説明がき、効能がきみたいなものだろう。
ところで、「心」の意味はこのくらいでいいとして、ハンニャハラミッタ(またはハンニャハラミツ)のほうもすこし説明しておこう。「般若波羅蜜多(または般若波羅蜜)」っていうのはただ発音をうつしただけで漢字に意味はない。もとのことばはサンスクリット語の प्रज्ञापारमिता prajñā-pāramitā [プラジュニャー・パーラミター]で(ただし「般若」はパーリ語の paññā [パンニャー]とかの俗語のかたちがもとになってるっていわれてる)、「知恵の完成」って訳せる。大乗のボサツの修行のひとつだ。
prajñā が「知恵」なのはいいとして、pāramitā が「完成」だっていうのは伝統的解釈とはちょっとちがう。っていうか、仏教の伝統としては pāramitā に民間語源説的な解釈をしてきた(「完成」っていうほうの説明も仏教のなかにあることはある)。pāramitā は परम parama [パラマ](最高の)からうまれた पारमी pāramī [パーラミー](完成)っていう名詞に抽象名詞の語尾 ता -tā がついたものなんだけど(このばあい -ī はみじかくなる)、これを पारम् pāram [パーラム](むこう岸に)+इत ita (「ゆく、到達する」っていう動詞の過去分詞)+ता -tā (抽象名詞の語尾)で、pāramitatā の -ta- が省略されたものってかんがえて、「むこう岸(さとり)に到達したこと」って解釈した。その意味で「到彼岸」って訳される。
『般若心経』のハンニャハラミッタはまずは真言の名まえで、「般若波羅蜜多心」は「ハンニャハラミッタっていうの名まえの真言」っていうことになる。だから、最初の「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」の「般若波羅蜜多」にしても、ボサツの修行としていわれてる一般のハンニャハラミッタっていうより、ハンニャハラミッタっていう真言をとなえる修行のことらしい。
この真言はハンニャ(ハラミッタ)・ボサツの真言で、ハンニャ(ハラミッタ)は女性のボサツの名まえでもある。女性なのは prajñā-pāramitā も prajñā も女性名詞だってことと当然関係ある。ハンニャ(ハラミッタ)っていう仏の知恵を神格化したものだっていうこともできる。ハンニャの知恵によって さとりをひらいてブッダになるから、その知恵がブッダをうみだす母ってことで、ハンニャ(ハラミッタ)は仏母[ぶつも]ともいわれてる。女性のボサツの名まえとしては -pāramitā の -tā は抽象名詞の語尾じゃなくて、過去分詞 ita の女性形 itā っていうふうに解釈することもできるだろう。
ハインリッヒ・ツィンマーは『インド・アート[神話と象徴]』(宮元啓一訳、せりか書房)のなかでハンニャハラミッタのことを「ソフィアの仏教版」っていってる。ソフィアっていうのはギリシャ語の σοφία [sopʰíaː ソピアー]で、かんたんにいえば神の知恵のことなんだけど、上智大学(Sophia University)の「上智」もこのソフィアだし、イスタンブールの聖ソフィア大聖堂みたいにソフィアの名まえをつけてる教会もある。キリスト教以外でもいろいろでてくるし、神格化されて女神だったりもする。
で、はなしはここでおわってもいいんだけど、「心」が真言のことだっていっときながら、その真言についてなんにも説明しないっていうのもどうかとおもうから、最後にその真言についてもふれておこう。いくつか解釈があるから、それを紹介しておくことにする。
『般若心経』の最後にでてくる真言は、
っていうもので(本によっては漢字にこまかいちがいがある)、発音をうつしただけだから漢字に意味はない。
ってよまれてる。その原文はこういうものだ。
中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫、1960)はふたつの訳をあげてる。ひとつは、「gate 以下の四語は恐らく gatā などという女性単数の呼格(vocative)であろう。完全な智慧(prajñāpāramitā)を女性的原理とみなして呼びかけたのであろうと解せられる。bodhi も呼格である」「スヴァーハーは、願いの成就を祈って、咒の最後に唱える秘語である」ってことで、
って訳してて、もうひとつは、「gate を於格(locative)に解すると、次のようにも訳し得る」ってことで(於格は処格ともいう)、
って訳してる。「ともかくいずれにしても pāramitā(到彼岸)という語の通俗語源解釈にしたがっているのである」。
渡辺照宏『お経の話』は、(-)gate をマガダ方言の男性単数主格、bodhi を対格ってかんがえて、
って訳してる。菩提[ぼだい]は bodhi の発音をうつしたことばで「さとり」って意味だ(ほかの本に収録したこのひとの訳は「悟りに」になってるらしい)。
佐保田鶴治『般若心経の真実』は、(-)gate は女性呼格で bodhi を形容してて、bodhi も呼格でハンニャ・ボサツの別名ってかんがえて、
って訳してる(ルビは[ ]にいれた)。
ここまでのものはみんな (-)gate を「ゆく」って意味の動詞の過去分詞ってかんがえてる。分詞は形容詞の一種で、形容詞は名詞としてつかわれることもある。
こういうのとはちがう解釈として、田久保周譽『解説 般若心経』(平河出版社、1983)だと、gate を「ゆくこと、道」って意味の女性名詞 gati の単数呼格だってかんがえて、これを第一の解釈としてあげてる。この解釈にもとづいた翻訳がこの本にはいくつかのってるんだけど、それはこういうものだ。
それから第二の解釈としてこの本には過去分詞としての解釈ものってる。gate は男性単数呼格で bodhi を形容してて、bodhi は男性名詞の単数呼格だってことで(bodhi は「女性活用する場合もある」ともかいてある)、
って訳してるんだけど、gate を男性単数呼格ってかんがえるのに俗語形がどうのこうのって説明してる。そんなこといわなきゃいけないのは bodhi を男性名詞ってかんがえてるからで、ほかのひとみたいに女性名詞ってかんがえれば、gate が女性単数呼格なのは文法どおりなんだから、それでいいはずなんだけど。
金岡秀友校注『般若心経』(講談社文庫)によると、マックス・ミュラーはこう訳してるらしい。
F. C. Happold “Mysticism: A Study and an Anthology” (Penguin Books)にのってる Edward Conze の『般若心経』の英語訳 “The Heart Sutra” だとこうなってる。
Lex Hixon “Mother of the Buddhas: Meditation on the Prajnaparamita Sutra” (Quest Books)はけっこう意訳してる。
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抜粋終わり
改めて、なるほど・・
心経は、「密教経典」で、さらに「読む・読経だけでも、効験がある」ってのは、成立の経過から見ても、改めて「正解」だったのだ。
お読みくださりありがとうございます