「天皇」という嘘が、日本人を劣化させている。水戸学然り、神道{平田神道&明治以降の}然り
上記文抜粋
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徳川幕府は「軍隊」を持ってなかった
ブログ管理者 (2022年12月22日 22:11) | コメント(30)
水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)がペリー提督の暗殺を企んでいたという話なんだが、その当時の水戸藩というのは滅茶苦茶な過激派で、徹底的な尊王攘夷で、外人殺せのテロリストです。実際にはね、黒船に積んでいた大砲で、江戸城まで弾丸が届く。黒船はまっ先に江戸湾で測量やってそれを確認している。大砲だけじゃない、ペリー提督の連れてきた兵隊は日本にはないマスケット銃を持っていて、火縄銃では太刀打ちできない。そもそも日本は軍隊を持っていなかった、ペリー提督のお迎えで江川太郎左衛門は自分の領地の村民にマスケット銃より進んだオリジナルの銃をもたせ、銀座三越で誂えた軍服を着せて、行進させた。ペリー提督もそれが「日本軍」ですらない、武士ですらない、江川太郎左衛門さんの私兵だとは気がつかなかっただろう。彼らを農兵と呼ぶ。農兵たちは農兵節のメロディーに合わせてペリー提督の前を行進した、徳川幕府は「軍隊」を持ってなかったのだ。
そんな江川太郎左衛門を水戸藩は目の敵にして、江川太郎左衛門の急死にはコイツが関わっているという話は当時からある。まぁ、思想とか信条とか以前に、、無知で肥大化した自意識の幼稚さがもたらしたところで、ひと言いわしてもらえば、「幼稚園児が外交に口を挟むな」
・・・・・・・中略・・・・・・・・・・
水戸藩主・徳川斉昭がペリー殺害を計画...攘夷など示す書簡16点、倉敷で発見 ★2というわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。
現代のネトウヨは、天狗党で壊滅した筈の日本の伝統的オバカッチョですw
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抜粋終わり
そもそも「天皇」特に明治以降の天皇は、非合理的な精神論でしかない。
天皇は、日本人の無知と無恥なのである。
より
上記文抜粋
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水戸学と吉田松陰とテロリズム 水戸学と横井小楠と教育勅語
前の記事で紹介した吉田俊純著『水戸学の研究 ー明治維新史の再検討』(明石書店)、大変に興味深い内容である。若干の論点を紹介してみたい。
著者は、水戸学が他藩にどのような影響を与えたのかを考証し、水戸学が明治維新に果たした役割が大きかった事実を論証していく。「水戸学と横井小楠」「水戸学と吉田松陰」「水戸学と長州奇兵隊」・・・・といった具合である。
「幕末でもっとも開明的な思想家」とも評価される横井小楠と、長州尊攘派のイデオローグ吉田松陰の水戸学の受容の仕方は対照的なのが興味深い。横井小楠は若いころには水戸学に心酔したが、後にその危険性に気付き、それを徹底的に批判するようになる。逆に吉田松陰は、当初は水戸学に批判的であったが、密航に失敗して萩に幽閉されてから、徹底的に水戸学を受容したテロリストになっていくのである。
横井小楠の尊攘テロリスト批判・神道批判
肥後の横井小楠は、若いころに藤田東湖と交流し、藤田の信奉者になる。しかし、水戸尊攘派が過激化するのを見るにつけ、尊王論と結びついた藤田の「誠」は、手段をわきまえない術策に陥ることは必然であると気づく。小楠は、水戸学の信奉者は「戦国の山師と同様」とまで述べ、尊王攘夷論を批判する。言い換えれば、藤田東湖の「尊王攘夷」とは、「誠」を大義に掲げつつ、そのためには、ありとあらゆる卑劣な手段を講じてもかまわないと考えるテロリズムに帰結することは必定であると批判するようになった。
水戸学は、儒教道徳と神道を結び付けたところに特徴があるが、小楠その危険性を察知して、神道も徹底的に批判するようになる。1864年には井上毅に対して
「神道の害は甚だしく、水戸や長州のような神道を奉じる輩は、君父に向かって弓を引くまでの不埒者となった」
と述べている。(『沼山対話』。井上毅は、「神道」を伏字にして紹介しているが、著者によれば、伏字の中に「神道」が入ることは明白である)
小楠は、『古事記』の神代神話も含めて全て真理と考えるようなカルト思想が、国際正義に背を向けた偏狭な国粋主義、さらに原理主義テロリズムに発展することを悟り、水戸と長州の過激派批判に転じた。
そして、「儒教」の中から国際的に通用する普遍性を抽出し、儒教に基づいて西洋帝国主義も批判するという開明的思想家となった。
小楠と教育勅語
しかしながら、『水戸学の研究』の著者の吉田俊純氏は、小楠の思想の限界性も指摘していて興味深い。すなわち、小楠が神道を批判したとして、水戸学全体を否定したとは言えないからだという。著者は、明治に小楠が生きていたとしても、開明的な方向にのみ進んだとは限らないという疑問を呈し、その根拠として、「教育勅語は、小楠の影響を強く受けた後輩の元田永孚と井上毅によって作られたことも、思い起こすべきである」と述べている。
安倍政権の思想のキーワードでもある「教育勅語」は、国家神道と儒教道徳の混成物で、どちらかというと神道色を薄めて、儒教道徳を前面に出したという点、水戸学的要素がみられる。教育勅語の精神が、軍部の玉砕精神にもつながっているという側面は濃厚である。この教育勅語が、開明的思想家・横井小楠の影響を強く受けた後輩の元田永孚と井上毅によって起草されたという事実は、意味深であると言わねばなるまい。何故そうなってしまったのであろうか?
吉田松陰の水戸学受容とテロリズム
つぎに吉田松陰を見てみよう。吉田松陰は、密航に失敗する前、佐久間象山門下である当時は、水戸学に批判的であった。ペリー来航時の嘉永6年(1853)には、兄宛ての手紙で、「水戸の老公(徳川斉昭)でも阿部閣老(阿部正弘)でも、海外事情を何も知らないのでは戦の仕様がない」と述べている。安政元年(1854)には、やはり兄宛ての手紙で、水戸の会沢正志斎を批判して、「会沢は『新論』で偉そうなことを述べているが、攘夷だなんだと言ってみても、軍艦の作り方一つ知らないではないか」という趣旨の批判をしている。
吉田俊純氏の著作には書いていないが、この松陰の言葉は、佐久間象山の水戸学批判をそのまま展開したものであろう。西洋技術を何も知らない水戸学の学者たちが、「尊王だ攘夷だ」と叫んでみたところで、いざ西洋から侵略されれば、何の役にも立たない空言に過ぎないという批判である。
松陰は象山からそう言われ続けて、オランダ語や物理学など勉強しようとしてみたが、彼は語学も数学も全くダメで、一向に身に付かなかった。彼は思想のセンス的には、完全に藤田東湖的であったのだ。
松陰に、理系的な素養はなかった。頭では、象山の教えが分かっていても、西洋技術を学ぶセンスは自分にはない。それで悩んで、「ならばアメリカに渡ってしまえ」と考えたのかも知れない。(これも私の推測であるが)
周知のように松陰は密航に失敗して萩に幽閉される。そこで佐久間象山のくびきから逃れることができた。やれ「オランダ語を学べ」、それ「物理学も勉強しろ」、「西洋を知らずして西洋に勝てるか」といった小言ばかり述べる口うるさい師匠が目の前からいなくなったのである。
萩の獄中で、松陰は水戸学の著述をむさぼり読み、また本居宣長の『古事記伝』も読破して、『古事記』に書いてあることは神代の神話も含めて、すべて真理であり、疑うことは許されないと考える国家神道の原理主義者になった。
佐久間象山がそれを知れば、唖然として松陰を叱ったであろうが、象山はいない。
松陰は水戸学と本居学を折衷させて、自己の思想を確立する。そしてついには、「尊王攘夷」の四文字のお題目を唱えれば道は開ける、身は滅びても魂が残ればよいと、と宗教原理主義的な玉砕テロリズムを鼓舞するようになる。かくして、合理的な思考をしていた象山門下時代の吉田松陰とは全く別人のようになってしまった。
水戸学の思想はテロにつながると危険視した横井小楠の危惧を、まさに体現したのが吉田松陰とその門下生たちであったといえるだろう。
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抜粋終わり
「天皇」「日本書紀」「古事記」という大嘘が、
国家神道=売国統一神道や水戸学を生み出した。
まさに
「嘘まみれの社会になると自身もその嘘を信じ始め、結果、人は幼児化する。甘やかされて育った子供のような行動になり、気に入らないこと不都合なことは、すぐ投げ出す。」
である。
嘘の根源の「天皇」を根絶やしにして、地球人類を救う
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みに富む社会になりますように。
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