母なるもの・・への畏敬が欠けると、過つ。

より

上記文抜粋
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妣への祈り


前回の投稿「外密の衝撃力」の補足をしておこう。

歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた[Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, … Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter 」(フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年)


ケンタウロスの母なる神はギリシャ語でレウコテア、「白い女神」と呼ばれていた[The Centaurs' mother goddess was called, in Greek, Leucothea, 'the White Goddess', ](ロバート・グレーヴス『白い女神』Robert Graves , The White Goddess, 1948 年)

ロバート・グレーヴスが定式化したように、父自身・我々の永遠の父は、白い女神の諸名のひとつに過ぎない[comme le formule Robert Graves, le Père lui-même, notre père éternel à tous, n'est que Nom entre autres de la Déesse blanche,](Lacan, AE563, 1974)

偉大なる母、神たちのあいだで最初の「白い女神」は、父の諸宗教に先立つ神である[la Grande Mère, première parmi les dieux, la Déesse blanche, celle qui, nous dit-on, a précédé les religions du père] (J.-A. Miller, MÈREFEMME 2016)



肝腎なのは白い女神への祈りだ、宗教の原点はここにしかない。




われわれが明確な線を辿って追求できることは、幼児の寄る辺なさという感情までが宗教的感情の起源である[Bis zum Gefühl der kindlichen Hilflosigkeit kann man den Ursprung der religiösen Einstellung in klaren Umrissen verfolgen](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)

寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)


母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている[Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. ](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)。



もっともフロイトやグレーヴスよりも、事実上、折口が先行している。

すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。

而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ〳〵移つて行くに連れて、愈強くなつて来た懐郷心とするのである。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」初出:1920(大正9)年5月)

……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)


ーー《匕は、妣(女)の原字で、もと、細いすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。》(漢字源)


ここでさらに老子を掲げることもできるが。



谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)


孔徳之容、唯道是従。道之為物、唯恍唯惚。惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。(老子『道徳経』第二十一章)

女性的な「徳(はたらき)」の深い孔のようなゆとりにそって「道」はただ進むだけだ。この道が物を作るのは、ただ恍惚の中でのことだ。恍惚の中で象(かたち)がみえる。その恍惚の中に物があるのだ。そしてその奥深くほの暗い中に精が孕まれる。この精こそ真に充実した存在であって、その中に信が存在する。(老子「孔徳之容」保立道久訳)



最近は古来からの常識がなくなってしまったからな、不幸な21世紀だね。


そもそも原始ヒンズー教(タントラ教)起源の彫像群を少しでも眺めれば(たとえばカジュラホ[Khajuraho])、どうして神はオメガΩではないなどと錯覚することができよう?


以下、バハオーフェン『母権制』 (1861) 、グレーヴス『ギリシア神話』 (1955) 、ウォーカー『神話・伝承事典失われた女神達の復権』(1983)をベースにした、さる女子大の講義論文。


そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。

Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。〔・・・〕
後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmのAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。

月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。
三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFate、Uni、Juno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf




最後に、限りなく美しいイナンナInanna(別名イシュタル Ishtar)ーーシュメールの母なる大地としての女神ーーの最近発掘された彫像を掲げておこう。


ここに表象されているのは小文字のオメガである。




小文字のオメガももちろん重要であるが、さらに重要なのは大文字のオメガである。

小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である[Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung ](フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)

心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている[Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. ] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊者としての女 [Vderberin Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう[Oder die drei Formen, zu denen sich ihm das Bild der Mutter im Lauf des Lebens wandelt: ]
すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)

実は蚊居肢子は根源的宗教家であって、書斎の棚にはジャコメッティ沈思カイエ像を中心に沈黙の女神たちが飾ってある・・・



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抜粋終わり

最近、気が付いたことだけど「易」で「母は陽」とは、「父が存在しない」ではなく「すべての人間は、母から見たら子供である」って厳然たる現実である。

その後のアホどもが「母を崇拝」し「女を馬鹿にする」ことで、そのことを、軽視し、挙句に女性を軽蔑しだした。
それはなんとフェミストもほぼ間違いなく。

母性崇拝~裏面での女性蔑視・ミソジニ~者たちは、裏からの「母性蔑視」だし、フェミスト~裏面での弱者女性蔑視・強者崇拝~も間違いなく女性蔑視&母性軽視なのである。

ゆえに老子の言うように

「我れは独り人に異なり、而して母に食(やしな)わるるを貴(たっと)ぶ。」{20章}

である。。

おまけに・・・・・。

仏教の「般若」は、「仏母」であり、「般若心経」は、「般若の知~仏母の般若菩薩」の真言をたたえる「密教経典」でもあるのだよ。


天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように

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