より
上記文抜粋
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国家と国民国家の違いーーヘーゲルの国家の定義とアンダーソンの国民国家
前回の「日本における国民国家成立過程」の続きとして記すが、なによりもまずは国家と国民国家とは違う。「日本」という命名はかつてからある、『日本書紀』という古典が示しているように。日の出る国、すなわち日の本の国だ。「白村江の戦い」での惨敗を経て、唐に対して、倭国を主権国家として扱ってくれとの含意をもつ親書を送ったことから、おそらく「日本」は始まる。つまり唐皇帝と日本天皇は対等の立場だという外交政策の帰結である。
そもそも白村江の戦いの日本側は、数だけは多いが、豪族軍と国造軍の寄せ集め集団に過ぎなかった。ここでは司馬遼太郎を掲げておこう。
とはいえ、かつての国家は日本に限らず、外部に向けての国家であり、内部への国家ではない。これはーー私は柄谷行人の『トランスクリティーク』での引用で知ったのだがーー、ヘーゲルの国家の定義にほかならない。
この国家とネーション(国民・民衆・農業共同体)の結婚が、フランス革命以後に起こった。そしてその前に資本(都市・市場)との結婚がある。これが少なくとも柄谷行人の21世紀以降の思考の基盤である。
繰り返し引用しているが、ここでも再掲しよう。
ーー『トランスクリティーク』とはこのイントロダクションの詳述化が記されている書といってもよいぐらいだ。
話を戻せば、日本の「国民国家」の場合は、前回掲げた《幕藩体制下では『クニ』とは藩のことで、庶民レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『天皇』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた》(宮台真司『ニッポン問題。M2:2』2003年)、あるいはベネディクト・アンダーソンの次の記述をベースとしてよいのではないか。
国民国家成立時期については論者によって微妙な差異があるがね、柄谷曰くなら、《日本で「国民国家」という感じが出てくるのは、日露戦争以後、対外的緊張からしばらく解放されて、内部の問題を見る余裕ができた時期です。そのとき、いわば「民権」派が盛り返してきた。一九二五年には普通選挙法も通った。そのような過程が「大正デモクラシー」と呼ばれています。〔・・・〕この時期には、明治時代にはなかったようなタイプのナショナリズムが出てきます。つまりネーションが重要な意味をもつようになったのです。》(柄谷行人『 「世界史の構造」を読む』2011年)。ここでの柄谷も先のヘーゲルの《かつての封建的君主制にあっては、国家は外部に向けてはいかにも主権をもっていたけれども、内部に向けては君主のみならず、国家も主権をもっていなかった》を念頭に置きながら読むべきである。
というわけだが、「白村江の戦い」について触れたついでに、中井久夫の文を補足の意味で掲げておこう。
この文は、最近とくに前面に出ている議論、「日本は第二次世界大戦以後、実際は主権などなく米属国に過ぎない」と要約できる主張あるいはその観点からはいくら批判的に読む箇所がないではないがーーロシアの哲学者アレクサンドル・ドゥーギンは《現代のドイツや日本の行動に対する憤慨は無駄である。第二次世界大戦の結果、彼らは西側の奴隷となり、事実上、存在しないのである》とまで言っている[参照]、ーー白村江の戦い以後の経緯だけでなく、「江戸」をめぐる記述はきわめて秀逸だと私は思う。目立つ行為はきびしく罰せられた江戸時代だが、これらの話の原点にあるのは、日本人はなぜ「大勢がなさざるの共犯者」になってしまうかという問いである。
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抜粋終わり
そもそも白村江で負けても、庶民は、たいした変化はなかった。
それが「日本」って意識を生んだとしても庶民からみたら「なにそれくえるか」だ。
だが、朝鮮半島は、高麗での元の侵略や、朝鮮の秀吉の侵略では、「国家」というのを考えて、国王や官僚や政治家は、国民の人心掌握をなさないと、自国を守れないのであるから、それに励んだ。
ベトナムは、、、毎度言うけど陳輿道の遺言のいうように、庶民の人心掌握なくば、勝ち目など無いのは、言うまでもない。
逆に侵略する側からしたら、庶民の人心掌握をしたら、その人たちが「侵略軍」を結果的に「解放軍」にしてくれるので、当然に庶民の心をとらえる方策も取るようになる。
三国志の諸葛孔明の「七縦七禽」も、この人心掌握をして侵略を成功させた面もある例である。
一度も大規模な「侵略」を明治まで受けなかった「天皇」とその信者がそのことに気づくはずもない。
でも、なぜに「戦国大名」とその後継者である「江戸時代の大名諸侯」が庶民から見た「国」となったのか・・
一つの可能性は、、、それが戦国大名・江戸の大名諸侯は、庶民の保護と人心掌握を、主体的に自分の利益に直結することでなされたからである。
たとえば、、、毛利元就が吉田郡山城に籠城したときに、周辺の住民・領民が武士と同じく籠城した。それは日々の執政が毛利氏が住民に支持されていたからであり、それが籠城したときの「助け」になることもある。
参考
また、家康が、遠江を、武田との争奪戦において、そこでの市街地の支持を受けていたので、市街地にあえて火をかけて退却戦を有利にした・・て話もある。
江戸時代は、大名諸侯が、自分の権益と地位を守るために、自ら庶民の生活保護・人心掌握に励まないといけなかったのだ。
だから庶民は「藩を国家」とみていたし、それは「統治権者の責任を果たしている」ってことで当然だったのだ。
でも、明治以降そういうことがあったか・・・諸葛孔明のような「七縦七禽」を食らって、庶民が外国に逃げる・外国に天皇を売って自分たちの生活を守る・・て経験など、天皇とその信者には信じられない状態だったのだ。
結局は「形だけ」の「統一」で、洗脳と脅迫と惰性で結果的に一種の「超自我」みたいなことなったのだが。
でも「ハリス」が、張り子の虎のマスコミで作られた「妄想」だったように、「天皇」は実質的には「統治者でなく、戦争責任すら逃げる」ような張り子の虎なのだから、日本人の規範意識などまともなはずもない。
ハリスの「張り子の虎」や「リベラルデモクラシーの正気さ」が「ガラクタ化して妄想」になり、崩壊していったように、「天皇」も壊れていくしかないのである。
敗戦の責任も取らない・国民に謝罪もしない・・・その天皇がコアにあって、どのようにして「国家の法規・善悪」を判断できるのだろうか。
「天皇」という権威は「そのコア」としての条件は十分だったが、その「コアが為す政治的機能」を果たすにはあまりに不十分で欠陥品だったのだ。
政治は「その機能果たす」ことで意味や権威が生まれる。でも「天皇」には機能が明確化されてないし、その機能を果たさないことでの対処法もない。なら「天皇制」とは現状では「政治ではない」のである。
「祭祀王」といっても、その祭祀で国家・社会で貢献することでその権威が認められる。
でも「天皇」には、その報いるべき「責務」が明確化されそれで評価され賞罰を決められたわけでない。仮に「祭祀」が責務であり国家の安定と繁栄が責務なら、裕仁は皇族会議とかして「隠居」か自死というなの処刑しか処分はなかったはずなのである。それすらない。
「天皇」は祭祀王ですらないのである。すなわち「王という詐欺師」なのである。
もはや「天皇」が存在するとは「国家ではない」のである。
天皇を根絶して 日本人国家を作る
天皇の無い 蒼い空を取り戻す
慈悲と憐みに富む社会になりますように