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そして僕はリングに立っている。

素性について書くことはありませんでしたが僕はプロレスのレフェリーです。

プロレス大好き少年だった自分が巡り巡って今リングの上に立っているなんて、当時の自分は想像していたのだろうか。

体が弱く小児ぜんそくと重度のアトピーがあり、幼稚園の頃はまともに運動をした記憶がありませんでした。
小学校に入ってからも体育の時間はいつもみんなについていけず、服を脱がなければいけないプールの授業がある日は他の子に馬鹿にされるため、ただただ辛かったのを覚えています。
そんな自分がスポーツを、ましてや上半身裸で激しくぶつかり合うプロレスを好きになるなんて思ってもいませんでした。
今思えば自分が欲しかった「強さ」と「健康な肌」がそこに集約していたのかなと。

小学生のころテレビでたまたまキン肉マン二世を見たことから僕のプロレス人生は始まりました。
当時はBSで土曜の昼と夕方にプロレスの放送がありそれらを毎週欠かさず見るようになりました。
ある日テレビで試合を見ながら「もし自分がここにいたら.…」と無意識に想像していました。
自分では考えないようにしていましたがその時点でもうプロレスラーになりたかったのだと思います。

中学生になってからはプロレス好きに拍車がかかりプロレス関連の書籍や入場曲のCDを買い集め、当時発行されていた週刊ゴングの読者コーナーにレスラーのイラストを描いて投稿するようになりました。

職場体験では某団体の会場に伺いリングでコールの体験をさせてもらい、初めて上がるリング、ロープとマットの感触、リングの広さに興奮と感動を覚えました。
修学旅行の会社訪問では某イベントを主催していた会社へ伺い、取材をさせてもらうなど、とにかくプロレスが好きでプロレスにまみれた中学生でした。

しかしプロレスが大好きでレスラーになりたいという思いはあったものの、当時の自分はレスラーにはなれないと思っていました。
「アトピーだから人前で服を脱げない」
これが一番の理由でした。

高校に入りレスリング部に入部しましたが練習環境についていけず半年ほどで退部、学校にも馴染めずそのまま中退しました。
高校を辞めたあと俳優になりたいという新たな夢が芽生え、名古屋の劇団の養成所に通い役者になれる日を夢見ていました。

このあたりから自分はいろんなことから逃げ出してしまうことが多くなりました。
養成所を出たあとは大阪で劇団員をやったり、勢いに任せて東京に上京したりもしましたが、どれも長く続くことなくすぐに愛知に帰ってきてしまったのです。

大阪ではなかなか周りに馴染めずさみしさに耐えきれなくて地元に戻り、東京では付き合っていた人に振られさみしさに耐えられず帰ってきてしまいました。
今思えば高校を辞めたのもそうだったのでしょう。

仕事も転々としてきました。
何をしてもなかなか続かない。
ですが演劇だけはやめることなく何とかしがみついていました。

東京から帰ってきてからは地元で映画製作や情報番組の裏方を経験しながら、舞台などに出演する生活を送っていました。

ある日自分にとってとても大きな意味合いを持つオーディションがありました。
岡崎市の葵武将隊という観光PR隊のオーディションです。
前年度に自分はこの岡崎市の葵武将隊で舞台に出演させてもらっていました。
岡崎市は自分を育ててくれた祖母との思い出が詰まった町でした。
その祖母は前年に他界し、自分としてはこの思い出の詰まった土地で役者をすることが祖母への恩返しになるのではないか。
自分にとって何がなんでも受からなければいけないオーディションでした。

しかし結果は落選。
前年に同じ舞台に出ていた同期に役を持っていかれてしまいました。
その瞬間自分の中で何かがフッと消えたような感じがしました。
燃え尽きたというほどかっこいいものではありませんが、急に役者に対しての熱が消えてしまったのです。

それからは何がしたいのかわからなくなり仕事を転々とするもどれも続かず。
見かねた知人の勧めで海外でバックパッカーをしていたりと、とにかくフラフラしていました。

そんなある日岡崎の葵武将隊から一本の電話がありました。
内容は「一緒に運営スタッフをやらないか」というもの。
自分にとっては願ってもいない話。
その翌月から自分は葵武将隊のマネージャーとして働きはじめました。

役者への未練はないはずなのになぜか目の前で活躍する「彼ら」を見ていると自分の中でもどかしい気持ちがありました。
「本当に自分がやりたいことは何なのだろう.…」
好きで就いたはずの仕事に悔しさを感じることが度々あったのです。

それは無意識に表情にも表れていたのかもしれません。
ある日武将の一人に「君が本当にしたいことはこれなの?執着してまでこの仕事をしてるとつらいだけかもよ。昔から本当にやりたいこととかあったんじゃないの?」と言われました。
次の瞬間の僕の口からは無意識に「プロレス.…」という言葉が出ていました。

自分でも驚きました。
なりたいと思うことはあっても、なれないと思っていたもの。
それが自分の口から出てきたことに驚きを隠せませんでした。

さらに驚いたのはその人物が自分がのちに入団する団体の代表と面識があったこと。
その彼の紹介を経て自分はプロレス団体に入門したのでした。
24歳の時の出来事でした。

入門してからは昼はマネージャーの仕事をしながら夜は道場で練習をするという日々を送っていました。
練習はとてもキツかったですが同世代の先輩がいたこともあり、楽しさを見出すことも出来てきました。

しかしある日練習中に怪我したことにより医者からプロレスを続けてはいけないと言われてしまいました。
結局自分はデビューすることのないままプロレスから離れてしまったのです。

そこからはまた不安定な日々が続きました。
何度かの海外でのバックパッカーの経験もあり、タイで仕事をしたいと思うようになりました。
そのためにまずは国内でお金を貯めなければ、そう思っていた矢先に新型コロナウイルスの流行が始まり、海外どころか国内での仕事すらままならない状態になってしまいました。

ちなみに当時の自分は地元のカフェで店長として雇われたばかりでした。
リニューアルオープンに向けてメニューの開発や準備に追われ、やっとオープンしたその4日後に一番最初の非常事態宣言が発令されてしまったのです。

実質営業期間4日で僕はまたしても職を失ってしまいました。
その後は関東に住む同級生の誘いで東京に引っ越し、重量鳶の仕事に就きました。
しかし数か月後、出張で行っていた長野県の山中で他社の現場監督のパワハラに耐えきれず、ある休日の夕方に荷物を持って宿から脱走してしまいました。
ここでもまた逃げてしまったのです。

逃げ帰ったあとは地元でアルバイトをしていました。
醸造所の配達、テーマパークのミュージカルの裏方。
逃げたことを帳消しにしようと頑張って働きました。

その後30歳を目前にして僕は福祉の世界に転職しました。
自分が転職を繰り返してきた経験を活かし就労支援員になったのです。

転機が訪れたのは2022年の8月でした。
自分の所属していたプロレス団体の代表から電話があったのです。
内容は「明日の大会のレフェリーがコロナにかかってしまった。レフェリーがいないから君来てくれないか。」というものでした。

突然の連絡に驚きましたが今を逃したら絶対次のチャンスはない。
そう思い代表からの依頼を承諾しました。

初めてのレフェリングはマットプロレスでした。
試合を終えた時点で感じたのは「レフェリーってこんなに大変なのか..…」というものでした。
自分の体力のなさを身をもって感じたのです。

翌月もありがたいことにレフェリーとして声をかけていただきました。
その後正式に団体所属のレフェリーとなり、自分の所属団体の興行で初めてリングで試合を裁くことができました。
あの時自分が練習していたリングにまさか戻ってこれるとは思ってもいませんでした。

今ではレフェリーという仕事にとても誇りを持っています。
色々な団体で経験を積ませてもらい、今年は念願だった海外での試合も経験させてもらいました。
まだまだ学ぶことはたくさんありますがあこがれていたリングの上にいること。
そしてプロレスの世界にいられることを当たり前だと思わずにこれからも感謝して頑張っていきたいと思っています。

最後に
中学生の俺に。
君はちゃんとプロレスの世界にいるよ。
でもここに至るまでにいろんなことがあって、つらいことがとにかく多い。
君は何度も体調を崩してたくさんのことから逃げてきた。

でも逃げてしまったことを後悔しないでほしい。
逃げなかったら今のこの瞬間の君は存在してないからね。
今も色々あるけどとりあえず人生楽しいよ。

レフェリーになった君より。



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