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【観劇レポ】言葉はいらない、ダンスで感じろ ミュージカル「ビリー・エリオット」

今まで見たミュージカルをプレイバックするシリーズ。
今回は日本では再演版となるミュージカル「ビリー・エリオット」の大阪公演(2020年)のレポ。僕にとってコロナ禍での初めての観劇作品となりました。キャストさんは写真の通り。

成長のストーリー

イギリスのとある炭鉱町。国内の炭鉱閉鎖政策に反対するストライキが熱を帯びる中、ひょんなことからバレエと出会い傾倒していく少年・ビリーとその家族を中心に描かれる「成長」のストーリー

主人公のビリーは、年相応の子どもらしさと、多感な年頃らしい不安定さの両面を持つ少年。大好きな母は他界しており、いるのはストライキに熱中する兄、ボケ始めた祖母、そして不器用な父。町はストライキにお熱で自由らしい自由もなく、かといって熱中できるほど好きなものもなく、少し擦れたような雰囲気も見せます。
しかしバレエと出会うことで自分の気持ちをありのままに、自由に表現することを純粋に楽しみ、そして才能を開花させていきます

「成長」とは、主人公であるビリーの成長はもとより、「ビリーがバレエを愛し、熱中し、夢を持ち続けた結果、周囲の大人も成長した」という意味もあると思います。
子どもと大人の真ん中にいる年頃のビリーを通じて、「自分」というものが固まってしまった、ともすると自分の好きなことや純粋さ、自由を失ってしまった大人たちも変わっていきます。

バレエの先生となるウィルキンソン先生は、物言いこそぶっきらぼうで、どこかやさぐれた女性。ですがビリーの才能に突き動かされ、指導者として、そしてかつて夢に敗れた者として、ビリーへ情熱を注ぎます。同時に母のいないビリーにとって「第二の母」のように感じられるような、元来の母性や優しさも見せるようになっていきます。

最後にビリーの夢は叶うわけですが、ストライキは負けてしまいます。ビリーがロンドンへ行くのを送り届け、父と兄、町の人々は再び暗い炭鉱へ。
ビリーの夢を通じて何かが変わった大人たち。暗い炭鉱の中からビリーを送り出す姿は、どこか誇らしげで清々しいものに映り、炭鉱夫たちのヘッドライトはビリーを送り出すファンファーレのようにも見えました。

自分らしさのストーリー

成長ともう一つ、「自分らしさ」も大きなテーマだと思います。自分の中の「揺るがないもの」とも言い換えられるかもしれません。

子の成長を応援する気持ちと、町と家族を背負う責任との間で揺れる父。自分の好きなことを捨てて愛する町のためにただひたすらにストライキへ傾倒する兄・トニー。ビリーの才能を前にしてかつての情熱を思い出し、夢を託すウィルキンソン先生。ビリーを鏡として、それぞれの登場人物が自分と向き合い、行動していく。

またビリーの親友マイケルは趣味の女装を、ビリーのばあちゃんは認知症を患いながらも若いころから好きだったダンスを通じて、自分の好きなこと、自分らしく生きることを、ビリーに、観客に、メッセージとして伝えます。

ビリーにとってはバレエが、ダンスがまさに自己表現の手段となるわけですが、もう一つ、亡くなった母の愛情というのも「揺るがないもの」の一つとして描かれます。たとえ傍にいなくても、母はずっとビリーの味方である。子どもらしく母の温もりを求めてしまうビリーも、ストーリー終盤ではその温もりを心の中に秘めて、次のステージへ進んでいきます。

「自分らしさ」の根底には、周囲の人からの愛が必要なのかもしれません。ビリーの前に幻として現れる母。ビリーの壁として立ちはだかる父と兄。マイケルの圧倒的な自己肯定感。いずれも形は違えどすべて「愛」ですよね。

生の人間による生きたパフォーマンス

やはり生のパフォーマンスというのは素晴らしいもので、僕自身1年以上ぶりの観劇ということはあったにしろ、終始舞台の空気、キャストのパフォーマンスに感動しっぱなしでした。特に主人公ビリーのダンス表現は、よくこんな小さい体からエネルギーを発せるな・・・と、まさに言葉を失う素晴らしい演技でした。

第1幕の最後「Angry Dance」は、しなやかなバレエダンスとは対照的に、力強いタップダンスがメインの楽曲。バレエをしたいのに許してもらえない「怒り」。赤と黒を基調とした照明演出も相まって、ビリーの感情が会場を震撼させます。

好きなことを許してもらえない。好きなことを「道楽」と切り捨てられる。踊れない。挑戦できない。レッスンが無駄になる。踊れない。踊れない。ストライキなんて知らない。大人が勝手に騒いでいるだけ。こどもの夢よりストライキのほうが大事?誰も理解してくれない。応援してくれない父。ストライキ一辺倒の兄。痴呆の祖母。バレエが好きな自分を受け入れてくれない。母はいない。自分の考え、気持ちをうまく言えない。自分でも自分がどう思っているか分からない。整理できない。伝わらない。伝えられない。

「怒り」と一言で片付けるのが憚れるような、でも「怒り」としか表現するしかないような、そんな言葉や気持ちの波が決壊したダムから流れ出すように一気に爆発するシーン。
「言葉にできない」まさに文字にできない感情が、小さな体の全身で表現され、大きな会場全体にぶつかり続ける。怒りが火花のように、会場のあちらこちらに行き交い、散って、爆発する。
一番遠い3階席から見ているはずなのに、ビリーの感情が体に頭に直接流れ込んでくるようなダンスで、感情の渦に一瞬で引き込まれました。

余談ですが「怒り」を意味する「angry」という英単語。元の語源は「首を絞める」「窮屈な」「苦しい」「悲しい」というような意味の言葉から生まれたものだそうです。まさにビリーの窮屈さ、苦しさを、ダンスで解放するかのようなシーンでした。


2幕では有名なバレエ演目「白鳥の湖」に乗せて、夢をあきらめきれないビリーと、想像の中の成長したビリー(オールダー・ビリー)が共演するシーンがあります。序盤でへっぴり腰ボクシングを披露していたビリーとは大違いの、夢に溢れ美しく舞う二人のビリーの姿は、言葉にするのを憚れるくらい美しかった。劇中で成長していくビリーが、さらに成長していく姿を想像させるようなシーンでした。


終盤「Electricity」では、オーディションの場面で「踊っているときはどんな気持ち?」と問われ、「よくわかりません」と断言するビリー。言葉では表現できないけど、理由をきれいに言えないけど、ダンスが好きなのは、ダンスを通じて自由になれるのは間違いない。曲中では自分のこの気持ちを「電気」と表現します。

大人は理由を用意し、答えるのが得意になる。理由があると納得感が増し、落ち着きます。でも本当にそうでしょうか?「なんとなく好き」「とにかく好き」。少なくとも自分が好きなことに対しては「理由はうまく言えませんが好きなんです」と気軽に言えるような世の中になればいいなあと、ビリーの演技を見て思いました。

舞台表現

ビリーがバレエに傾倒する様子と、町がストライキに傾倒していく様子。どちらも「熱を帯びていく」という意味で共通するのですが、この2つを同じ場面で交差するように描くなど、演出面でも魅力的でした。

また劇中では炭鉱の田舎町が舞台ということで、登場人物の多くは博多弁(?)のような訛り混じりで話します。田舎らしさを表現する印象的な演出の一つで、特にビリーの家族は色濃く訛りが印象的です。ビリーと父ちゃんがロンドンへ行くシーンでその「田舎臭さ」が際立ちます。些細と言えば些細ですが、こうした細かい設定・表現も面白いなと思います。

まとめ

タイトル通りビリーが主人公の物語です。しかしビリーだけでなく、ビリーと接する人々のそれぞれの「愛」の形があり、心の動きが音楽、歌詞、演技、そしてダンスに表れていました。

そして何より、新型コロナで「生」のものが減る中、やっぱり「生」のミュージカルは良いなあと思いました。成人した男性が終始むせび泣くくらいの感動。演出、演技、ダンス、歌、セリフ…コロナ禍の中での人間の力のようなものを、このミュージカルにかかわる全てから感じた結果、「涙を流す」という反応でしか僕の体が対応できなかったのだと思います。劇中でビリーがダンスや叫びで表現したのと同様、まさに言葉にならない感情が、涙として現れた。そんな感じです。

ミュージカル「ビリー・エリオット」にかかわったすべての方に賞賛の拍手を送りたいと思います。2020年11月14日、コロナ禍にあっても無事千秋楽を迎えたようです!また再演されることを切に願います。

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