【観劇レポ】学べるか過去に? ミュージカル「マリー・アントワネット」
豪華絢爛なフランス宮廷、そして血と憎しみの香る革命。100万のキャンドルと美しいドレス、そして人間の闇とが対比的で身につまされる、そんなミュージカル「マリー・アントワネット」(2021)観劇レポです。
2021年初観劇。3/3大阪のソワレ(夜公演)と、3/11の大千穐楽の2回見に行きました。3/3ソワレは1階14列。今までの観劇の中で一番舞台に近い…!3/11は2階6列で、全体が見れる良い眺望。
概要
原作(原案)は遠藤周作の小説「王妃 マリー・アントワネット」。
18世紀フランス王妃マリー・アントワネットと市井の貧しい少女マルグリット・アルノー(架空人物)という「イニシャルが”M・A”の二人」を通じて革命期のフランスを描いた作品。
ミュージカルとしては2006年に初演、その後2018年に新演出版として再演(今回は新演出版の再演)。ちなみに2018年版はDVDが発売されており、いつでも手に取ることが可能です。言うまでもなく僕は購入済。
史実や原作では別々の人物が果たす役割を、一人のキャラクターに凝縮している面があるので、史実・原作とはあくまで独立した作品と捉えるのがいいのかなと思います。
また革命時代を題材とした創作では、革命を「自由をつかむ、民衆の聖戦」として描くものが多いですが、本作は必ずしもそうではないことを表現しているのかなと感じました。
マリー・アントワネット
花總まりさんと笹本玲奈さんのWキャストで演じられた二人のマリー・アントワネット。
花總マリーは「貴」の字がそのまま動いているかのようなマリー。教科書から現代によみがえるマリー・アントワネットここにあり、終始纏う空気がマリー・アントワネットそのもの。本物を見たことはないけど、たぶんこれが本物。
世間知らずの箱入り娘がそのまま王妃になりましたかというような、軽薄さと無邪気さもありつつ、務めを果たさんとする高貴なプライドもある、そんなマリー・アントワネット。
笹本マリーは「情」のマリー。マリー・アントワネットが現代に生きていたらこうなんだろう、というどこかリアリティのある雰囲気。各場面での感情や雰囲気の切り替えが絶妙で、感情がストレートに伝わってくる。
マリーの一途なロマンス、家族愛、王妃のプライドなどなど多面的な顔がはっきりわかる、一人の人間・マリー・アントワネットが生きていると思わせる、そんなマリー・アントワネット。
お二人それぞれが「マリー・アントワネット」の様々な要素を異なる角度から表現されているようで、これぞWキャストの妙。
♪「憎しみの瞳」は、花總マリーが王妃としての気高さ故、マルグリットの放つ言葉の意味が純粋に理解できない様子がありますが、笹本マリーはプライド故のマルグリットに対しての「売り言葉に買い言葉」。
♪「革命」は、花總マリーのまっすぐな気高さ、裁判中終始まっすぐに天を見つめる瞳には思わず息をするのを忘れるし、笹本マリーの力強い声量は世界に響き渡る、国を背負った王妃として、そして一人の母としての叫び。
マリーを構成する要素をまとめるとすると、「王妃」「女性」「母」があると思います。
「王妃」としてのマリー・アントワネット。暴徒が宮殿に乗り込んできたときも「王妃のいるべき場所は王の隣」と逃げず、断頭台に首を差し出すその時まで失わない王妃としてのプライド。
忠告を無視したことでその場を去るフェルセンを引き留めようとした時も、「私は王妃」「命令です」と、心にもない言葉が口をついて出たのも、王妃としてのプライドをいかなる時も持ち続けたゆえ。王としての器量に自信のない夫・ルイに対しても、最後まで「神に命じられたその地位を汚すことのできない王」として支えます。
民衆からは贅沢三昧の象徴として見られる豪華なかつらとドレスは、周囲の貴族たちからの誹謗中傷・嘲笑に耐え、王妃の鑑として振る舞うために見つけた武器。言葉も知らない異国の嫁いだ先が蛇の巣のような宮殿なのですから、ドレスこそが唯一の心のよりべなのだと考えると、まさに孤独のドレス。
「女性」としてのマリー・アントワネット。王妃のプライドの裏面で「もし王妃でなければ」と願うほどに、フェルセンとの恋に身を焦がした女性。フェルセンの前では王妃でも母でもない、「一人の女性」でありたい。
夫の処刑によるショックでやつれ、白髪になった姿をフェルセンに見られまいと顔をそらすのも、愛する人の前では一番美しい自分でいたいという心の表れ。フェルセンを愛したことだけは、唯一自分が一人の女性として選択し誇りに思えること。
「母」としてのマリー・アントワネット。夫ルイ、愛するフェルセン、親友ランバルと別れ、最後の希望である子どもたち。♪「明日は幸せ」は子守歌ですが、母としてだけでなく家族全員を愛する気持ちが映し出されているようでした。
フェルセンに脱出を促される際も、子どもたちを置いていかなければならないと知るや「子どもたちを置いて逃げるくらいなら死を選ぶ」と断ります。裁判直前の息子シャルルと引き離されるシーンの叫びは、悲痛すぎて見ているほうも苦しい。最後の裁判でも、両親をギロチンに送った民衆を子どもたちが恨まぬことを訴えました。
ちなみに子どもたちの史実での生末。娘のテレーズは革命後も生き延びますが、欧州を転々とする苦労の生涯を過ごします。
シャルルは革命政府による虐待・洗脳、そして病魔によってわずか10歳でその生涯を終えます。シャルルの生涯はネット検索でも調べられますが、人間の負の面を凝縮したようなもので、トラウマになること必至なのでご注意。
フランス革命で自由を獲得する民衆たちが好きな方からすれば、本作で描かれるマリー・アントワネットは「美化されている」と思われるかもしれません。民衆も比較的「愚か」に描かれているので余計に。
ですが王妃、女性、そして母として生きたマリーから、現代に生きる我々にも感じるものはあるのではないでしょうか。諸説ありますが史実でも、最期まで王妃としてのプライドがあったと言います。
マルグリット・アルノー
こちらもWキャストでしたが僕が見たのは2公演ともソニンさん。
ソニンさんは「キンキーブーツ」の時に見て以来。キンキーブーツではコミカルなキャラクターでキュートでしたが、今回のマルグリット役は舞台に立つ「人間」としてのエネルギーの体現。
負の感情の表現に定評があるソニンさんですが、フランス革命の時代の民衆の魂を憑依させているかのような、劇場を一気に支配する余人をもって代えがたい存在感。2階席からでもその視線、表情、感情がわかるくらいの演技。もはや演技と言うのは失礼かもしれない、あえて言葉にするなら「生き様」そのもの。
マリーを憎む民衆の代表として描かれる、作中唯一の架空の人物。マリーを憎みに憎み、エベールやオルレアンとともにマリー追い詰めていきますが、終盤ではマリーを追い詰める無慈悲な手段や非人道的なやり口に違和感を隠せません。
「自分たちを動物扱いしてきた」と思いつつも、夫と子どもを奪われ、憔悴するマリーを前にして「自分の正義」に対する疑念を持ちます。そして革命裁判では同情を隠せずマリーを庇うという、自己矛盾を抱えることに。
マルグリットが恨んだのは「マリー・アントワネットという概念=不平等と理不尽の象徴」であって、マリーという人物個人ではないのかもしれません。民衆から搾取し贅沢な生活を送る王族貴族の代表としての王妃。外国からやってきた祖国を食いつぶす余所者の王妃。
終盤に監視役としてマリーを見て、一人の女性としてのマリーや、母としてのマリーを知った。その経験を経て自分の怒りと憎しみが個人へのものではなく、この世の不平等と理不尽に対するものだということを理解したから、最後にエベールとオルレアンを裏切った。
彼らもまた「不平等と理不尽」を私欲のままに生み出したのだから、マルグリットにとって「憎むべき不義」であり、彼らへの告発は正義。
処刑台で躓き倒れるマリーに手を差し伸べ、お辞儀をする彼女の姿は、「最後まで己の役割・王妃として生きた個人、一人の女性としてのマリー」に対する敬意だったのでしょうか。それとも今まで憎んできた相手が、自分たちの手で処刑されることへの罪悪感でしょうか。ソニンさんのマルグリットからは、そのいずれとも違うし、いずれでもあるような何かがあるように思いました。
フェルセン
こちらもWキャストですが、田代万里生さんの公演のみ観劇。
立ち居振る舞いが伯爵というか王子様。育ちの良さと余裕、紳士な姿勢、ああもう男も惚れる。田代さんの歌声はずっと聞いていられる。まっすぐで包み込むような透き通った心がそのまま歌声に乗っているような、それでいて力強さもあるような、唯一無二の歌声ではないでしょうか。
マリーの愛人であり、マリーに夢と現実の両方を与える役割でした。「愛した人はただのあなた 王妃ではない」という歌詞がありますが、マリーを王妃でなく一人の女性として愛しているというのが節々に見られます。
しかしマリーが王妃であることも理解していて、王妃の立場にあるマリーに迫る革命の兆しを察知し、身を案じるがゆえに厳しく現実を見せようとする面もあります。
本当に愛しているからこそ、厳しい面も見せる。皮肉なことに現実を見せようとすればするほど、マリーはフェルセンとの夢とロマンスに逃げていくのですが…。一緒にいることは叶わぬとも、その思いは秘めて、何とかその命だけは助けようとしますが、無念。
マルグリットに対しては、「恋愛」の愛ではありませんが、彼女を一人の人間としてリスペクトし、一人の人間として向き合います。自分を嫌われ者のドブネズミ、マリーを皆に好かれる孔雀と例えるマルグリットに対して、その認識が二重の意味で誤っていることを優しく諭し去っていきます。
マリーは皆に好かれているわけではない。そしてマルグリットも、皆に嫌われているわけではない。
ちなみに史実では生涯独身を貫きました。愛するマリーが処刑されたことにより民衆を恨むようになり、粗暴な振る舞いが目立ったそうです。そしてその振る舞いは新たな憎悪を生み、最後は政変に巻き込まれ暴徒に殺されます。復讐と憎悪にかられ、自らも復讐と憎悪に殺された人。何とも皮肉な運命。
オルレアン公
Wキャストですが2公演とも上原理央さん。
上原さんがセクシーすぎる。いやらしい意味じゃなくて、セクシーとは、と辞書引いたら「上原理央演じるオルレアン公のこと。またはオルレアン公を演じる上原理央のこと」と書いてあってもおかしくない。
オルレアンがメインの楽曲はロック感があって昂ってきますが、それに上原オルレアンのセクシーハイトーンボイスが重なったら無敵。喉からセクシーが湧き出てました。
ディズニーでいう愛すべきヴィラン。常に周り全員を見下してて、自分だけがフランス全体の流れを見れているかのような視線がエロい。終始「お前にとってのオルレアンはこういうのだろ?」と見せつけてくるような、余裕のある自分に酔ってる感じがエロい。
第二幕明け1曲目「世論を支配しろ」の「欲望 野望 そして血の匂いで世論を支配すれば王だ」という歌詞で、その血の匂いを嗅ぐ仕草をするのがエロい。「支配してっ!」てなる。何を言うてるんだ僕は。
最後はマルグリットに裏切られますが、作中におけるストーリーの展開を牛耳っているのは間違いなくオルレアン、まさに黒幕です。
史実では作中ほど黒幕役ではなかったようですが、彼も紆余曲折を経てギロチン送りとなり、欲望、野望、血の匂いに染まった刃の露と消えました。彼も結局は時代の渦に巻きこまれた一人だったということですね。
ところで今回はWキャストですが、運動量も声量もいるこのオルレアン公を、2018年は吉原光夫さんがシングルキャストでやってたことに今更ながら驚愕します。すごいな吉原さん…。
ジャック・エベール
上山竜治さんと川口竜也さんのWキャスト。エベールは二人とも見れた…!
上山エベールは飄々としててむかつく(いい意味です)。川口エベールは大人っぽい余裕がある感じがあって、やることはちゃんとやるけど裏で悪いことしてるよって感じで、それはそれでむかつく(いい意味です)。キャストのお二人に罪はありません。
詩人であり、マリーの風刺詩を書き、それにマルグリットが節をつけることで世間を煽動。オルレアンと共謀してマリーを追い詰めていきます。
オルレアンは基本的に野心を表に出さないので、いつも冷静。それに比してエベールは「愛国」の名のもとに、どんどん手口と口調が過激になっていく。協力者たるマルグリットに対してもどんどん高圧的・支配的になっていきます。
マルグリットは「民衆」の代表ですが、エベールは「フランス人」の代表という側面があるキャラクターです。
エベールや革命政府が口にする「愛国者」というワード。エベールが言うように、フランス国民にすればマリーは「余所者の外国人」。狭い大陸の中で領土と覇権を争っていたヨーロッパにおいて、外国は脅威そのもの。その脅威たる余所者が国庫を食いつぶし、聖職者(ロアン大司教)を貶めるのは腹立たしいこと。
日本は島国で、外国から攻め込まれることは歴史で数えるほどですが、ヨーロッパは攻めて攻められての繰り返し。その背景を知ると、民衆のマリーに対する怒り憎しみの根源がわかる気がします。
史実ではオルレアン同様、彼もギロチン行き。ちなみに劇中50数曲ある中、エベールだけ彼一人がメインの曲がございません。ランバルやレオナール&ローズも見せ場あるのに。
ルイ16世
原田優一さんのシングルキャスト。
個人的に感情移入してしまった人No1。作中で一番の「いい人」。
終盤で革命裁判所に連行されるシーンで、悲痛な声を上げて抵抗するマリーに対し、優しい笑顔で頷くところは一瞬の場面でしたが涙が止まりませんでした。セリフはありませんが、マリーにだけに向けられたその笑顔がつらすぎる…。
マリーがフェルセンと恋仲であることを知りつつも、それでもマリーを非難もせず、最後まで王である自分の横に立つ唯一の存在として大切に想っていたのだと考えると余計につらい。一家逃亡の際にマリーに手を上げようとする男に対してブチぎれるのは、劇中唯一のルイ怒りのシーン。ルイにとってマリーは文字通り「愛しい人」でした。つらい…。
マリーと同じくルイもまた「なぜ自分が王なのか」と、自分らしさと務めの間で苦しむひとりの人間として描かれています。そういう意味ではすごく人間らしいキャラクター。コインの肖像に描かれるような人物でなく、平凡で有名でもなくても誰かの役に立つ鍛冶屋のように生きられたなら。劇中で歌われるように、王でなく鍛冶屋ならば、幸せに生きることができたかもしれません。
王位を剥奪されて幽閉生活が始まってからは、ある意味憑き物が取れたかのように穏やかな笑顔を見せます。つらい…。王としての決断力や政治力はイマイチかもしれませんが、圧倒的に人が良くて、優しすぎる。史実通り、自らが改良案を提示したギロチンによって最期を迎えるのは歴史のいたずら、皮肉の極み。
ランバル公爵夫人
彩乃かなみさん演じるランバル夫人。
常にマリーの傍で支え続ける心の友。敵ばかりの「蛇の巣」である宮殿の中においてマリーが心を許す存在。
史実ではマリーの「親友ポジション」は移り変わりがあり、冷遇された時もあったようですが、最後までマリーの傍で仕えたのはランバル夫人だったようです。
劇中常にマリーやその子どもたちを案じています。冒頭の舞踏会のシーンでも周りの貴族がマリーのことをクスクス嘲笑う中、優しく見守っていますし、第一幕の最後のシーンでも、不安そうにしている子どもたちを優しく慰めています。
彩乃さんのお声がすごく落ち着いた雰囲気だからですかね、聖母かと思いました。聖母。慈母。菩薩。良心の塊。慈しみという言葉がドレスを着て歩いていらっしゃる。
だからこそ、ランバルが暴徒に殺されるシーンは非常にショッキング。善良な人が無残に殺されるシーンほどむごいものはない。民衆からすれば「王妃とともに国庫を貪った貴族」のひとりでしかなく、善良な人であるわけがないので殺して当然だったのでしょうか…。死のシーンの血まみれドレスは何回見てもトラウマレベルでキツイです。
レオナール&ローズ
マリーお抱えの髪結師・駒田一さん演じるレオナールと、彩吹真央さん演じるドレスデザイナーのローズ・ベルタン。
作中のコミカル担当でもあり、暗いシーンが多い中でも二人のシーンはほほえましく笑えます。特に駒田さんは自由すぎる。
悪役ではなく、むしろニュートラルな立ち位置。風見鶏的に社会の風を読み、自分たちが生きていく一番良い方法に行動を移す人たち。したたかな生き方です。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」という有名なセリフは、マリーの言葉ではないというのが通説ですが、作中ではローズがマルグリットに対して言い放って踊り出します。
また豪華なドレス・髪型のお披露目シーンでは「そんなアホな」というデザインが出てきますが、史実でも奇抜なデザインのドレス・髪型を流行らせていたようです。船を乗せたかつらなんかは有名ですね。
ところで某ポケモンのムサシとコジロウを思い起こすのは僕だけでしょうか。
貴族&民衆
劇中で貴族たちは序盤しか出てきませんが、マリーを嘲笑している雰囲気が冒頭の舞踏会シーンで出ています。DVDではあまり気付きませんでしたが、♪「なんという王妃」でマリーが歌っているとき、クスクス笑っているんですよね。
フェルセンと再会して嬉しそうなマリーを見て「恥知らず」と歌う貴族たち。マルグリットが乱入してきたときも、ハンカチで空気を払ったり、鼻をつまんだりしてました。THE嫌味なお公家様、という感じですね。
一方の民衆。他作品では正義のために戦う姿を美しく描かれることが多いですが、本作では比較的「愚か」に描かれます。マルグリットは「正義と信念」をもって動きますが、民衆が動くのは金、あるいは空気。金が手に入るなら女装して行進もするし、周りが恐怖と怒りの空気ならその一色に染まる。民衆心理の負の面を強調しているように思います。
マルグリットは民衆の代表として描かれますが、本質的には民衆とも違うのですよね。前述の通りトラウマのランバル殺害シーンの民衆は、嬉々として世界を血で染める様、本当に筆舌しがたい恐怖です。
複数回公演を観れる機会があるなら、こうした名もなき役を演じるアンサンブル(ざっくり言うとメインキャスト以外の方)にも注目すると面白いです。「あ、さっきあの役してた人がこの役してる」とかもあります。
学べるか過去に
「復讐は終わるか」「学べるか過去に」「その答えを出せるのは我ら」・・・劇中最後の楽曲♪「どうすれば世界は」では、直球ストレートのメッセージが観客に投げかけられます。
現代も根も葉もない噂や誹謗中傷であふれています。単なるデマであってもその時代の潮流や他の要素と結合することで、思わぬ結果をもたらすことがある。その結果は、時に人の死であったりもします。
フランス革命、そしてマリー・アントワネットとルイ16世の処刑は、人類の歴史の中で言えば「必要」なことだったかもしれません。その首を断頭台に食わせたことで、民衆が力を、そして自由を得ていったことは事実だと思います。
しかし一方でフランス革命は暴力の元でたくさんの血を流し、そして恐怖政治へも繋がっていき、流さなくて良い血も流れたはず。嘘や誇張が含まれた情報によって世界を血で染めた歴史から、我々は学んでいるか?と。
情報のトリミング
嘘や誇張を含んだ情報に踊らされることがあるのは、フランス革命当時の人々も、現代に生きる我々も同じです。むしろ現代の方が、より多くより速く情報が流れ、情報を得る手段も豊富にある分危険かもしれません。
作中ではマリーに関する情報が、民衆たちの憎しみと怒りを膨らませる一因となります。しかし革命裁判の場面で民衆がマリーに向ける言葉たちは、事実と大きくかけ離れていました。
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」は(作中では)ローズが言い放った言葉ですし、「息子を毎晩ベッドに連れ込んで…」というのもただの寝かしつけを歪曲したもの。「蛇のような女」と揶揄される場面がありますが、蛇は劇中、もともとはマリーがオルレアンを指して使った比喩です。あまりに酷すぎる嘘だらけの告発に、煽動する側だったマルグリットも不信と怒りを覚えます。
よく言われることですが、情報の受信側は「それが一次情報であるか、情報源が確かか」を意識する必要があります。二次・三次の情報であれば、それが誰かの考え・感情が混ざっているかもしれないという視点で事実と意見を分けて考えるように気を付けないといけない。いわゆる情報リテラシーの問題ですね。
情報の発信側も、「自分の出した情報が切り取られて伝わる可能性」を念頭に置く必要がある。政治家の失言のニュースは典型的な例かもしれません。
作中でもエベールが風刺詩をしたため、それが民衆にウケたことで、事実かどうかとは関係なく世間に出回ることになります。出回った情報は、瓢箪から出たコマ、もはや「事実」として浸透していきます。
バックグラウンドの違い
本作ではマリーもマルグリットも「好きでこの立場に生まれたわけじゃないのに」というのが根底にあります。
境遇に不満を持っていたのは二人とも同じ。ただ一人フェルセンに愛され共に生きること、誰か一人にでもいいから愛情を受けて過ごすこと。愛を求めていたのも二人とも同じ。「父が教えてくれた」という子守歌♪「明日は幸せ」を知っていたのも同じ。二人の間に目に見える違いはたくさんあれど、根底の部分で同じところもありました。
根底にあるものは一緒だけれど、境遇が、「王妃とはこういう存在だ」という認識が二人でそれぞれ違うから、理解し合えない。
マリーが華やかな生活を送っていたのは、敵ばかりの宮廷で生き抜くためでもある一方、それが「王妃の務め」だからという面もあると思います。王妃の立場は神と法が与えたものであり、そうである以上王妃は王妃らしく振る舞わなければならない。民衆が貧しくても、王妃は王妃らしく振る舞うのが務め。気の毒には思っても、「そういうもの」と思っていたはずです。
でも民衆からすればその振る舞いはただの贅沢三昧に、そして傲慢に見える。自分たちはこんなに苦しくて貧しいのに。楽曲♪「憎しみの瞳」でマリーとマルグリットが分かり合えないように、バックグラウンドが違うことを認識しないまま話しても分かり合えるはずがありません。
違うから憎んできた。違うから分かるはずもない。でも違うからこそ、知ろうとしなければならなかった。知れば理解はできずとも、受け入れることはできるかもしれない。
憎しみで目が曇っていたから見えなかった。裁判シーン以降のマルグリットの表情・涙には、そのブレイクスルーが表れていたように思います。
「違う」二人は「同じ」をきっかけにその関係性を変えていきます。マリー・アントワネットとマルグリット・アルノー。二人の「MA」を通じて描かれたのは、「違うから分かり合えない」ではなく「違うから分かろうとしなければならない」ということなのではないかなと思います。
最後に
長くなりました。ミュージカルを見に行く時は、作品のメッセージ性などは気にせずにその空気感を楽しみにしているのですが、ストレートな問いかけを受けて考えざるをえませんでした。
そのメッセージは高度な情報化が進み、そして未曾有のコロナ禍に見舞われた現代にも刺さるものがあると思います。
メッセージ性はさておいても、キャッチーで耳に残る音楽、豪華な舞台、さすが東宝ミュージカルやなあと思います。
コロナ禍の中、約2カ月のロングラン、一人も欠けずに演じ切られたこと、本当に良かったです。