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風景【ショートショート#2】
いつもよりもゆっくりと、目が覚めた。時計の短針は「7」を指している。
カーテンを閉め忘れていたから、陽の光が差し込んでくる形で起こされた。いつもとは違って、空気清浄機の空気を吐く音だけが、静かに響いている。
2つ並んだシングルベッドの片方だけ、掛け布団とシーツを直した。心なしか、いつもより綺麗に正せた気がする。軽く顔を洗ってから、一杯の珈琲を淹れる。いつもの朝の過ごし方。休日ということもあって、穏やかな時間が流れる。
その後、いつものように煙草を吸いにベランダに出ると、鉢に入った金木犀とムスカリに目がいく。僕の育てているものではなかったが、仕方なしにそれらに水をやった。陽の光で雫が照らされて、少しだけ喜んでいるように感じる。
昨晩、彼女に別れを告げられた。
好きな人ができた、話された理由はそれだけ。少し大きな鞄に荷物を詰め込んで、二人で住むには少し狭かった1LDKから、彼女は出て行った。
いつからそんな気持ちが芽生えたのか、誰を好きになったのか、これからどこで暮らすのか。聞きたいことがありすぎて、だから一つも聞くことができなかった。
彼女が家を出るとき、玄関の段差に躓いた。少し嫌な躓き方だったので、足を挫いたのではと心配になり、駆け寄って大丈夫か聞いた。すると、彼女は今まで見たことのないような寂しそうな目で、少しだけ遠くを見ながら答えた。
「あなたのそういうところが大好きで、ずっと窮屈だった。」
金木犀とムスカリを眺めながら、煙をふぅと吐く。彼女の言った、窮屈という言葉の意味を考える。彼女の言葉を否定したことはないし、できる限り想いは汲んできたと思う。旅行に行く時も、たまの休みのデートも、彼女が楽しめるように振る舞ってきたつもりだ。
考えても、答えてくれる人はいない。考えを巡らせるのを辞めて、煙草の火を消して部屋に戻った。1人で住むには広すぎる部屋。彼女の希望で白いフローリングを選んだ。僕はなんでも良かったのだが、「白い方が、可愛い家具が映えるでしょ!」と嬉しそうに話す彼女が可愛らしくて、この部屋に決めた。そんなことを思い出したら、少し胸がチクっとした。
部屋にこもっていると何となく気が耽ってしまいそうで、行くあてもなく家を出た。ふらふらと歩いていると、いつもと変わらない景色が、いつもと違う感情とともに映る。
よく一緒にスイーツを買って帰ったコンビニ、アームが弱くて一度も取れたことのないゲームセンター、彼女の大好きだった中華そばの老舗、どちらかが仕事で嫌なことがあったとき、ストレス発散のために一緒に行ったカラオケ。
目の前に広がる景色と、胸を覆う感情が交錯して、ふと気がついた。
僕は、彼女のことが好きだったんだ。
何気ない日常が、彼女と歩くこの道が、映る景色が全部好きだった。
楽しそうに居酒屋を探す彼女、岩盤浴で爆睡していた彼女、スーパーのお寿司が安くなっているのを見て「奮発しちゃう?」と嬉しそうな彼女。全部が全部、大切で愛おしかった。
もしかすると、僕の大切な時間と引き換えに、窮屈な日常を送らせていたのかもしれない。或いは、僕が愛しく思う彼女で居続けることに、無理があったのかもしれない。「窮屈」というのは詭弁で、単なる心の移り変わりなのかもしれない。
本心も嘘も正解も間違いも分からない。もう誰も答えてはくれない。
来た道を引き返す。一人には広すぎる部屋で、僕も一歩、前に進まなくちゃいけない。
今日はまだ始まったばかりだ。長い一日が始まる。愛おしかった景色と彼女に別れを告げるように、足早に街を去った。
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