猫町体験
萩原朔太郎の猫町について考えていた。それは今日の午後からのスクーリングの題材で、その準備として作品を自分に引き寄せてみたり、自分なりの着眼点で作品を捉えておきたいと思ったからだ。
ぼーっと、最近買った2.5人掛けのソファにもたれかかったりしながらそういえば、僕もこの主人公と同じような経験を、好んでやっていたことを思い出した。
普通の高校に行くことなんて意味ないじゃん、ということで定時制の制服もない高校に、片道2時間くらいかけて通っていた。今思えば、自由な高校に行ったところでそもそも勉強すること、というよりも学校に行く意味を見失っていた自分は、高校に行かないという選択をすることもできなかったので、よりストレスの少ない高校を消極的に選んだように思う。
高校卒業した後のビジョンなんて無くて、だけどまあまあ頭がいいのでそんなに勉強も頑張らずともそれなりに暮らしていける。吹奏楽部の練習で遅くまで学校にいたり、彼女とカフェ行ったり雑貨屋行ったり絵の展示をみたり、友達と酒を飲んでそのまま泊まったり。平和だけどどん詰まり。そんな暮らしをしていた。
僕の中には旅をする衝動みたいなものがあって、しょっちゅう学校を休んだり抜け出しては、ひたすら何時間も街の中を歩き回ったり、原付で特に目的地を決めずに海岸線や山の中の良さそうな道を見つけてはひたすら走ったりしていた。
ひたすら歩いたり走ったりしていると、道が自分を誘い始める。自分が道を選んでいるのか道に選ばれているのかわからなくなる。濃密な匂いを放つ何かが、その道の先から感じられる。僕はそれが自分にとって心から必要なものでもあり、自分を変質させてしまうおそろしいものでもあると感じる。人気はなくなり、緑が濃くなる。人工物がなくなり、敷石や砂利道になる。役割や時代感が溶けて、感覚体の自分がその、濃密な香りの方向に吸い寄せられていく。近くなってきた。ここは右、近いけど違う。もう少し、、、
たどり着く。
そこは知らない神社だったり、石垣の下を流れる川を眺めるためのベンチがあったり、木だったり、葉っぱのつゆだったりがあった。道から藪を抜けた先にある波のない海だったり、小舟だったりした。
普段なら多分なんでもない場所だ。だけどその時の自分にとっては、その風景は完全に自分の心象風景だった。外にあるものではなく、全てが内的空間の現れだった。無心で描いた抽象的な絵のようだった。
しばらくそこにいると、現実が現れ始める。虫が体を這う。汗をかく、お尻を掻きたくなる。人が来る、思考があれこれ次の展開を求め始める。そうなるともう満足して、旅を終わりにして帰路につく。
さあ猫町とはなんなのか。こうやって似た経験をあげてみたけれど結局まとまらない。ただわかったのは、僕も中枢のいかれた妄言を吐く一人かもしれないということだ。
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