「働く」とは何かを知った日
私は、大学を卒業して就職し、新社会人として働き始めた最初の仕事を楽しめず、しばらく仕事は「ライスワーク」でしかありませんでした。
自分の「やりたい仕事」をまだまだ考えている最中、先に社会人になり、ひとまず一人暮らしをできる仕事をと卒業して4月を迎えるという時間の流れで自動的に社会人になったという感覚でした。
学生から社会人になるその転機を、能動的にというより「大学を卒業したから」「一人暮らしをするには、目の前にあることをやるしかない」という消極的な気持ちで社会に出たという事実を否めません。
私は今でこそ、自分自身の仕事にアイデンティティを持ち、仕事と暮らしの境界線なく「ライフワーク」として取り組んでいる感覚がありますが、新卒の私が知ったら、何がどうしてそうなれたんだ!!と思うと思います。
新卒の仕事を始めて数年、私は資格取得のため専門学校に行くことになり、ソーシャルワーカーとして就労支援の仕事をはじめました。就労支援といっても、自分自身がまだ社会に出たばっかりのひよこ状態です。
支援も何も、自分に支援が必要なのではないか(就労支援なので、仕事とか就職活動にかかわる仕事だったのだけど、自分自身のビジネスマナーがまだおぼつかないなど)と日々感じながらの新しい仕事でした。
新しい仕事を始めて少し慣れた頃。知り合いから「大学生のインターンシップのメンターをしてくれない?」と頼まれました。
大学生が企業に取材に行き、そこで大人がどんな仕事をしているのかインタビューして記事にするというインターンシップでした。私たち社会人メンターの役割は、大学生の相談役です。
大学生は、社会人と話すのも、企業訪問も初めてという学生も多く、そのドキドキに共感しながら、私自身も自分の経験と勘を頼りにサポートしていたように思います。
その時、学生が悩みながら挑戦をして、大人とかかわりながら社会を知っていく過程を共有してもらったことが、私自身にとっても「社会とは何か」「仕事とは何か」を学ばせてもらう経験になりました。
大小さまざまな企業が、この社会にはあって、そこには人がいて、人の想いやアイデアがあって、作り出されるものがある。
たくさんの大人が、考えを持って働いている。その考えを元に作られた商品やサービスが、世の中の必要な人に届いていく。社会がいい方向に行くように、たくさんの人が日々自分の力を使っている。
私はそんな想いを持って、今の仕事ができているだろうか?
「何をすれば仕事をしているといえるのか」。答えのない対人支援の仕事をしながらぼんやりと浮かんでいた問いに正面から向き合った瞬間でした。
確か、そのインターンシップの集まり、飲み会か何かの帰り道だったと思うのですが、博多の中洲川端の橋を渡って歩いている時、目に飛び込んできた景色がありました。
「この景色は全部、どこかで働く誰かの仕事で成り立っているんだ」と。
今自分が歩いている橋の石畳、この材料を作る人、販売をしている人、工事をした人がいて、今ここを歩くことができている。ここのビルもあの建物も、ネオンも、信号も、ここにあるものすべてが、誰かの仕事を通してここに存在しているんだ、と。
すべての働く人のことを、心底「すごいな」と思う気持ちが溢れてきて、泣きそうになりました。
それまで何も考えず歩いていた道や使っているモノに「人」を感じ、当時一人暮らしで繋がりもそう多くはなかった私が無機質に感じていた「街」や「知らない他者」にも体温を感じた瞬間でした。
人は仕事で自分の仕事を通して協力し、役割分担をしながらこの世界を作っている。社会をつくる役割のひとつを担うこと、それが仕事である。
そう思った時、「これまで自分がしていた仕事は、仕事ではなく、作業だったのではないか」とも思いました。
誰もが必ず仕事に意味や意義を見出さなければいけないということはないけれど、自分にとっての意味を掴めないまま決まった時間に出社し、お金になるとはいえ作業をすることは、それまでの私にとって、とても苦しいことでした。
自分が今している役割について、意味や意義を見出し、どうしたらもっとよい仕事にできるのか考える、という態度をこの時初めて身に付けられたのかもしれません。私が社会人になったのは、この瞬間だったかもしれません。