
イエスとノー
訳者コメント:
ぼくには子供がいないので、子育てという仕事に関わったことはなく、自分の生い立ちから推測するしかないのですが。親からはいつも、どうあるべきかという強いメッセージを受けていたと思います。親がぼくに与えるものは全て、「ためになる」という条件でふるい分けられたもので、「くだらん」ものごとは排除されていました。ぼくが大学生となり親元を離れるまで、そのフィルターは完全に内部化されぼく自身のものとなっていたので、親に反抗するという選択肢があることさえ気付いていませんでした。
子育て、教育というものの全体が、「いいね」と「だめ」、「イエス」と「ノー」で条件付けることで成り立っています。それはルールに従うことが社会で生きていく上で最も重要だと考えられているから。でも本当の理由は、親が子供を服従させコントロールすることにあり、コントロールできないことに不安を覚えるのです。子供本来の性質は「悪」だから、それを挫いて矯正するのが教育だということになります。放任的(のように見える)子育てをする人に対しては、「あんなことしてちゃ本人のためにならない、社会に適応できなくなる」といって非難し、その「だめ」に親は反応してコントロールを強めざるを得なくなります。そうやって、人にどう思われているかが行動を選択する基準になっているのに気付かされます。大人もまた「いいね」と「だめ」に絡め取られているのは、成長の過程でそれが内面化されてしまっているからです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
5.4 イエスとノー
経済学と、ダーウィン主義の生物学と、二元論的な宗教の間で意見が一致しているのが、住み良い世界をつくる唯一の希望は、私たち全員が一生懸命いい人になるよう頑張ることだという点です。このような見方は、文明を根本的に善であるとみなしています。なぜなら、自然の持つ獣のような傾向と二重写しになるのが、文明の見せる自然に反した条件付きの行動であり、それは勝利至上主義で食うか食われるかという真実にも反しているからです。生まれたばかりの子供は完全に自然、完全に無教養であるため、教育や育児の目的は、文明化された道徳や価値観、行動を身に付けさせるために、子供本来の性質を破壊するか、少なくとも抑制することです。それゆえ、服従と規律が途方もなく重視されるのです。
「頑張る」ことの反対は、自発的で、即興的で、簡単な「遊び」です(遊びが始まるのは、私たちが和んだときだけです)。遊ぼうと頑張っても、遊びにはなりません。不安と恐怖、強制と強要、服従と規律は、遊びと相いれません。体操教室や少年野球など、いま遊びと称して行われている子供の活動の多くは、実際には「能力開発」や「服従訓練」に近いものです。でも悲しいことに、私たちの社会はそれよりも早い年齢から遊びの否定を始めます。
ハイハイができるようになるまで、赤ちゃんの遊びの自由を制限するのは身体能力だけです。絶え間なく遊び、体を動かし音を出すさまざまな方法を探ります。生後8ヶ月に未たない子供に制限や指導をしようとする親はほとんどいませんし、「だめ」という言葉を使う理由もほとんどありません。でも動き回れるようになると、(私たち親なら誰でも知っているように)赤ちゃんや幼児は散らかしたり、協力を拒んだり、自分自身を危険にさらすことさえあります。もしかしたら、鍋やフライパンを全部出して30分くらい叩いていたいのかもしれません。もしかしたら、チャイルドシートに乗りたくないのかも。もしかしたら、今はお腹が空いていなくて、食べ物を床に放り投げたいのかも。もしかしたら、滑り台を反対向きに登りたいのかもしれません。でも降りるときに他の子供とぶつかったらどうするの? 転んで怪我をするかも。
こういった状況で、幼児期に典型的な言葉、「だめ」が出てきます。それに伴う(身体的または言葉による)暴力によって、あるいはそのような暴力をちらつかせることによって、「だめ」は力を持ちます。いずれの場合も、私たちはコントロールを確立する必要性を感じているのです。鍋やフライパンをバンバン叩かせるわけにいかないのは、散らかって、ひどい騒音で、なんといっても乱れているからです。今すぐチャイルドシートに座らせないといけないのは、10時に予定の場所に行かねばならないし、「幼児拘束装置」に座らないと危険で違法だからです。(私はよく「マシュー、幼児拘束装置に座りなさい!」と言います。)食べ物を床に投げつけたらとても汚くなるし、夕食の時間は後でなくて今だし、私たちには他にすることがあるのです。現代生活にどっぷり浸かればスケジュールに翻弄され、私たちは忙しいのです。遊び場の滑り台については、合理的に考えればそれほど危険なことではないのかもしれませんが、何といってもルールを守ることは教えねばなりません。
私たちはあるレベルで、子供の自主性と創造性を束縛しようとするのですが、その理由は自身を束縛するのと同じで、実行可能でも、現実的でも、安全でもないからです。時にはさりげなく、時には露骨に、私たちは子供たちを実用性や安全性、良いマナーや道徳に向かわせようとします。現在では、肉体的苦痛への恐怖を利用した荒っぽい方法は好まれなくなりました。その代わりに、私たちは選択的な賞賛と不承認によって子供たちを操っています。私たちが認めるようなことをしたら良い気分になり、私たちが認めないようなことをしたら罪悪感や恥ずかしさを感じるように仕向けます。声の抑揚だけで十分なこともありますし、さりげなく兄弟や友人と比較すれば事足りる場合もあります。
コントロールの企ては巧妙で、なおかつ至るところに行き渡っています。それはほとんどいつも意識に上ることさえありません。もしあなたが子を持つ親なら、子供たちに語りかけるとき自分自身の言葉に耳を傾けてください。言葉や口調によって、「あなたは悪い子だ」とか「あなたは(条件付きで)良い子だ」という言外の意味を作り出していることに気付いてください。両親がいる場合は、両親からあなたへの会話に耳を傾けてください。そして最後に、あなたが誰であっても、自分自身との対話に耳を傾けてください。私の内なる対話にそれが充満していることに気付かされるでしょう。私はこうだから良い、ああだから悪い。Xをするなんて悪いからできない。Yをやらなきゃ良い人とはいえない。必ずしも「悪い」や「良い」という言葉を使うとは限らず、その代わりに、前者には怠惰、甘え、利己的、貪欲、間違っている、後者には格好いい、素敵、ふさわしい、価値がある、正しい、といった言葉で置き換えるかもしれません。このような言葉の裏には、罪悪感、自己否定、承認欲求、不安、羞恥心といった感情があり、それが私たちをコントロールされた人生へと導きます。
私たちがコントロールしようとしている子供の行動の多くが、実はそれほど危険なものではないことに気付けば、この企ての巧妙さが明らかになります。「ルールを尊重することを教えなければならない」という正当化は、私たちを問題の根源へと導きます。安全性や利便性といった目先の問題よりも優先されるのは、子供が両親に従うことを学ばなければならないという「原則」です。人は規律に従わなければならないのです。最初は外面的な規律に従い、やがて大人として内面的な規律に従わなければなりません。コントロールは、それを正当化する安全性、実用性、道徳規範よりも重要な目標なのです。不服従と嘘という、子供時代の二つの大罪について考えてみましょう。他のどんな違反行為よりも、不服従と嘘は典型的な親の心を深く動揺させます。それが理不尽で、しばしば耐え難い苛立ち、無力感、怒りを引き起こすのは、子供がコントロールできていないのを曝け出すからであり、つまりは子供の自主性を行動で主張しているからです。そのため、最も厳しい処罰を招くことは間違いありません。
何年も前のことですが、息子のジミが三輪車に乗って我が家の袋小路を走っていたとき、私道から車が出てくるのが見えました。私は叫びました。「ジミ、車が出てくるよ、道の脇に寄って。」息子が返事をしなかったので、私はもう一度、少し大きな声で叫びました。「ジミ、どきなさい、車が来るぞ!」それでも息子は反応しませんでした。幸いなことに、車の運転手は息子に気付き、彼を避けて袋小路の外へ走っていきました。実際にそれほど危険な目に遭ったわけではありませんでしたが、もう私は完全にキレていました。私が息子に近づき、面と向かって叫んだのは、父親の言うことを聞かなければならない、車から見えなかったらどうするんだ、ということでした。ジミはもちろん泣き出し、私はしばらく惨めな罪悪感に苛まれ、彼を慰めたのはかなり時間が経ってからでした。
この件や似たような出来事について何年も考えた末、私が結局気付いたのは、車の危険性は単なる言い訳に過ぎなかったということです。私が「キレた」本当の理由は、怯えていたからです。私は彼を恐怖で服従させたかったのです。彼が私の言うとおりにしなかったことに激怒し、彼を脅して次は私に従わせようと思ったのです。また、隣人は私が息子の行動をしっかり監督していなかったことを良く思わないでしょうから、恥ずかしかったのです。私はダメな親だと思いました。ジミの不服従が引き起こした深い不安は、実際には身に迫る危険とはほとんど無関係だったのです。
その後に私は学んだのですが、子供の信頼と服従を得るための遥かに効果的な方法は、子供に向かって膝をつき、手を取り、目の高さで彼を見つめ、なぜ父親の言うことを聞くのが大切なのかを、冷静に、でも確かな言葉で真摯に伝えることなのです。子供が親の指導と保護を自然に望んでいることを信じ、その願望に語りかける方がずっと効果的です。彼の魂を抑え付ける必要はありません。人間の本性と戦う必要はありません。あなたはそれを信じられますか? 私の子供たちはほとんどいつも私に従い、脅したり罰したりすることもないのを信じられますか? 力だけが物事の成り行きを変えることができるニュートンの世界に生きる必要はないのです。
それに、私の子供たちが私に嘘をつく理由などめったにないのが分かっていただけるでしょうか? 言い逃れするようなものは何もありません。あなた自身の思春期を思い返してみてください。あなたは自由を得たり罰を避けたりするために、日常的に両親を欺いていましたか? 秘密の生活がありましたか? 親密さと信頼を回復するのに(もし回復できたとしたら)どれくらいの時間がかかりましたか? 子供たちからの疎外は、コントロールがいかに私たちを世界から孤立させるか示すもうひとつの例です。
「する必要がある」という流行りの言い方は、子供たちの精神を支配していることの現れです。ある母親が6歳の娘に「中に入って寝る準備をしなさい」と求めたのに、娘がそれを二度三度と無視した後、母親は怒ったような、しつこく威嚇するような口調に切り替えたのを聞きました。「マギー、今すぐ中に入って、それが必要なの!」ジョージ・オーウェルが見抜いたように、人の行動を支配するだけでは不十分で、思考と感情もコントロールしなければならないのです。私は母親を責めているわけではありません。母親は文化の風潮を伝える仲立ちにすぎないからです。でも何が必要かを誰かに命令する横暴さを考えてみてください。結婚カウンセラーなら、相手がどう感じるべきか指図するのは失礼で逆効果だと言うでしょうが、私たちはいつも子供に向けて、褒めたりけなしたり、報酬を与えたり脅したり恥をかかせたりすることで、まさにそれを実行しているのです。
私が説明したさりげない支配の形は、かつての鞭打ちや殴打よりも優しく見えますが、本質的には何も違いません。それらは子供にとって最大の恐怖を操るための別の手段にすぎません。子供(あるいは他の若い哺乳類)が、痛みよりも遥かに強く恐れるのは、親から拒絶されたり見捨てられたりすることです。そのため、子供たちは自分を殴る手に進んでキスをしたり、みずから罰を求めたりすることさえあるのが知られています。この観点からすれば、子供に罵詈雑言を浴びせるのは殴ることと同じです。どちらも、見捨てられるという原始的な恐怖を呼び起こします。実際、たまに叩くぐらいならまだましで。長期にわたって繰り返しコントロールすることで、完全に受け入れてもらうにはまだ足りないと子供に思わせる方がダメージは大きいでしょう。これで十分だと言われることは決してありません。承認が実績を条件とする場合、どんなに完璧にやっても、子供が安心できることにはなりません。大人になって、親の承認を自己承認として内面化した場合も同じです。条件付きの承認とは、永久に保護観察下に置かれることを意味します。あなたの天然の自己は悪いものなので、良くなるために努力せねばならないのです。しかしどんなに努力しても天まで届く塔を建てることはできません。どれだけ高く登ったところで、私たちの努力はいつまでも限りなく不足しているのです。
人間の魂はとても強いので、生存に対する脅威でなければ抑え付けることができません。見捨てられるという原初の恐怖は、子供の魂を挫く手段となります。子供たちの「訓練」や「文化変容」は、生存不安を最も深いレベルで利用します。「親に殺される」と言っていた学生のことを思い出してください。それは見捨てられることへの恐れを表す隠語なのです。
生存不安は両親を突き動かしてもいます。私たちは子供の魂を挫くことを、物理的な安全という意味であれ、社会で安定した地位を勝ち取るという意味であれ、いつも「子供自身のため」だと言って正当化します。しなければならないことをするのではなく、やりたいことをやるように子供を育てたら、結局どうなってしまうでしょうか? 勉強より遊びを優先する子供でしょうか? 自分らしさを決して曲げない子供でしょうか? そのような子供は、社会が提供する通常の役割を担うことができないかもしれませんが、学校での屈辱的な日課にも、〈機械〉の中の生活で日常的に与えられる屈辱にも、決して服従することはないでしょう。デリック・ジェンセンはこう語ります。
それから私は学校教育が13年も続く理由を理解するようになった。子供の意志を十分に挫くには、それだけの時間が必要なのだ。彼らが耐えねばならない苦痛に満ちた雇用生活に備えて、子供たちの意志を切り離し、自分の世界という体験から子供たちを切り離すというのは、容易なことではない。それは短時間でなし得るものではなく、そして実際、特に遅い者が大学に進学する。非常に頑なな子供には大学院が用意されている。[19]
この横暴はジェンセンが言うよりもはるかに巧妙なものですが、それは大学や大学院に進むのが、じつは意志が特に強い子供たちではないからです。全く逆です。大学や大学院は、社会でエリートの地位に就く資格を得るほどにまで意志が挫かれていることを、優秀な成績を通して証明した者だけに与えられる、一種のご褒美なのです。確かに、学校の勉強が大好きという幸運な人もいますが、ほとんどの人にとって学校は退屈な雑用であり、言われたとおりにやる意思を行動で示すための「しつけ」なのです。指示に完全に従う気になれず、注意力が散漫で、授業中に笑わそうとふざけ、宿題をするよりも外で遊びたがり、従順を強制する制度や文化や子育ての仕組みに抵抗するほど強い魂を燃え立たせる者は、学校で良い成績を取ることはできません。その代わりに、バカ、怠け者、悪い子、あるいはADD(注意欠陥障害)や、ADHD(注意欠陥多動性障害)、私の好みであるODD(反抗的行為障害)といったレッテルを貼られることになります。そして、遠回しな脅しやインチキっぽい動機付けなどで真面目に勉強するよう仕向けられなかった場合、反抗的な子供を抑え付けるために薬物を使ったコントロールに頼ることもあります。
子供に「だめです」と答えさせるためなら、社会は何でもします。これは人間の探究心や創造性と相反するものなので、じつに壮大な事業です。だからこそ、幼児たちがこの言葉を何度も繰り返し、その言葉を理解しようとし、その生命を奪う力と自分の中にある創造的な力を調和させようとしているのを、私たちは目にするのです。これをいつか試してください。子供連れの若い母親でいっぱいの、幼児向けの小さな遊び場に行くのです。目を閉じて耳を澄ましましょう。異様に目立つ、ある一言が、威嚇するような調子で何度も発音されます。「ジェレミー、だめ!」「アシュレー、だめ!」「コートニー、だめ!」だめ、だめ、だめ。小さな子供への影響を考えてみてください。彼の目には、両親は神であり、巨大な全能の存在であり、特に幼いうちは宇宙そのものとほぼ同じ大きさに見えています。神々は威嚇と疎外をちらつかせ、私たちに「だめ」と言うのです。宇宙は味方じゃありません。私たちは自由じゃないのです。
幼い頃に内面化された「だめ」という言葉は、幼年期から青年期にかけて繰り返し容赦なく響き渡り、大人になる頃には、私たちの基本的な知覚の中に静かに染み込んでいます。その結果、自分の創造性が正当なものだとは思わなくなり、私たちはいつも怯えながら、大丈夫だろうか、新しい領域に足を踏み入れてもいいのだろうか、と考えるようになります。そしてやがて私たちはこの状態に慣れ、あらゆることが明確に許可か禁止のどちらかになっていて、不確実性も曖昧さも未開の領域もない世界に、心地よさを感じるようになります。言い換えれば、私たちの人生は全て、この何の変哲もない二文字の言葉によって定義されるようになったのです。想像するに、それが「支配層が言うのはノー、イッピーが言うのはイエスだ![20]」という60年代の過激なメッセージの根底にある直感だったのでしょう。何に対するイエスでしょう? この宣言に説明など要らないのは、その意味は直感的に明らかであり、対象を必要としない普遍的なイエスだからです。
「だめ」という言葉で人生の大半から私たちを断ち切った埋め合わせとして社会が提供するのは、制約され、無害で、結局はインチキな逃避と享楽の場であり、そこで私たちは狭い範囲の些細な自由を楽しむことができるのです。この典型がベビーサークルです。それは世界の極めて限定された一部分であり、あらゆる変数がコントロールされた場所です。そこではランプを倒したり、カーペットを汚したり、暴れたりできません。そこにいれば絶対に安全です。実生活で闊達と奔放が起こるのは、安全で管理された人生の断片の中です。バカンス、居酒屋、パーティー、遊園地、ガイドツアー、ショッピングカタログ、テレビ、インターネット、そして夥しい消費者ブランドが作る無限の宇宙。これらは大人のベビーサークルなのです。
私たちの社会は今、人生全体をこの遊び場の中に包み込もうとしています。ここに「ノー」と対になるものがあります。自分自身の恐れと社会の禁止事項によって定義された、狭い条件付きのイエスです。
さきほど、遊びの世界は生後8ヶ月まで無傷で生き続けると書きました。でも今しがた、「ベビー・トレーニング」という最新トレンドのニュース記事が目に入りました。そこでは「音楽と小道具を使って赤ちゃんの集中力を持続させ、視線の追従性と協調性を向上させます。[21]」優れた教師の手にかかれば、このようなクラスは完全に遊び心に満ちたものになるでしょうが、この概念そのものが示しているように、身体を動かすという、本来なら生きていることの最大の喜びのひとつだったはずのことが、練習やトレーニングという仕事の領域に移し替えられたのであり、それはフィットネスのため、体重をコントロールするため、体をシェイプアップするために「やらねばならない」ことなのです。またひとつ、予定され、指示され、プログラムされた生活が、前例のない領域へと拡張されました。ジョセフ・チルトン・ピアースが悲しげに言うように、「遊びの終わり」は、今ではとても早い年齢でやってきます。それもそのはず。コントロールされた世界に服従するため、魂は早くに挫かねばならないのです。
注:
[19] ジェンセン [Jensen,] p. 102
[20] 60年代のマニフェストで読んだ覚えがあるが、出典はわからない。
[21] クリスティン・ジェリノー [Gelineau, Kristin,] “Baby Workouts Touted to Ward off Obesity(肥満予防のためのベビー・トレーニング)” Salon Magazine, 2004年6月13日.
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-04/
