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客観性の終焉(前)
訳者コメント:
ニュートンの機械的な世界観があまりに深く私たちの直感に染み込んでいるので、最初に与えられた条件によって後のことが決まってしまうという決定論が当たり前と感じられ、人生は「親ガチャ」によって決まるという無力な運命論に陥ってしまいがちです。
かれこれ1世紀も昔に発見された量子力学の世界は、核物理学や電子工学といった実用的な応用を生み出して、それが私たちの生活に入り込んではいるのですが、確実性や客観性が成り立たないという奇妙な世界は、機械論的な直感とあまりに矛盾しているので、実生活とは関係ないものと思われています。
自分で進路を選択するように見える素粒子の振る舞いこそが世界の根本にあって、自律的に行動する人間のメタファー(暗喩)として相応しいという、刺激的な話が展開されます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
第6章:確実性の崩壊
6.1 客観性の終焉
「分断の時代」は、あらゆる次元で私たちの前に姿を現しました。世界のモノ扱いと矮小化、生命の金銭への転換、理解と支配という企て、個別ばらばらの自己の疎外は、全て現代において歴史的頂点に達しようとしています。これら分断の様々な側面は全て、私たちの文明の公式の教義である科学という宗教の中で結び付いています。しかし、おそらく一世紀ほど前から科学自身の内部に新たな逆流が湧き起こり、大転換を推し進めようとしています。この極めて重要な変化が促し反映するさらに大きな変化は、人類の上昇を構成する分断のあらゆる次元を全面的に変革するものです。
多くの宗教と同じように科学が内包しているのは、イデオロギーと目論見と方法です。科学というイデオロギーを構成するものには、世界とそれがどのように機能するかについての根本的な物語、可能性に与える現実と空想という区分、そしてどのような種類の知識が正当であるかの定義があります。科学の目論んでいるのは、私が〈科学の計画〉と名付けたものです。その野心は、デカルトのいうように物理的宇宙の「支配者にして所有者」になるということ、つまり全ての現象を測定し予測しコントロールできる領域へと取り込み、全ての知識が実験的に検証可能な客観的真理という確固たる基盤の上に成り立つようにすることです。
科学という宗教の第三の要素である〈科学的方法〉は、科学のイデオロギーからその妥当性を引き出し、科学の計画からその動機を引き出します。〈科学的方法〉の根拠として、実験の再現性、仮説の検証可能性、そして突き詰めれば決定論と客観性という前提があることは、すでに述べたとおりです。科学的探究の全般が前提としているのは、科学的・合理的に人生と向き合うと共に、私たちが調べ、試し、理解し、やがて予測しコントロールできるような現実が、私たちの外部にあることです。ここに確かさへの探求があり、理解は事実という土台の上に立ち現れます。事実にこだわり、そこから推論することで、私たちは客観性を保ち、より信頼性の高い知識を得ることができるのです。
決定論という前提は、因果律という従来の概念を規範化し、コントロールという〈テクノロジーの計画〉を正当化します。それによれば、何かに引き起こされたのでなければ何も起こらない、ということです。原因がなければ、出来事が自然に、神秘的に、魔法のように発生することはありません。出来事は原因から予測できるのです。もし私たちが現象の原因を学び、その原因を使いこなすことができれば、私たちは現実の支配者となります。十分な理解さえあれば、あらゆる物事はいつの日か人間の領域に持ち込まれるのです。
ここで強調しておきたいのは、決定論がいかに深く私たちの信念体系に織り込まれているかということです。同じことを同じようにやれば、同じ結果になるはずです。誰かが火打ち石を打てば火花が出るでしょう。それを見たあなたは同じことをしますが上手く行きません。それであなたは、「上手くいくときもあれば、いかないときもある」と結論づけるでしょうか? そうではなく、あなたがしたことは何か違っていたはずだと推測します。自分の石を調べて同じ種類かどうか見ます。自分の打つ動きを検証します。初めて上手くいったときの状況を再現するために精一杯の努力をします。決定論は世界と合理的に向き合うための絶対的な基本なのです。このことを私が強調するのは、決定論が破綻したことの重要性を明らかにするためです。私たちはまだ、その心理的な衝撃を完全に吸収するには程遠い所にいるのです。
客観性は、私たちが世界を理解し世界と関わっていく上で、同じように極めて重要です。それが示すのは、観察し測定し定量化しコントロールできる現実が、私たちの外部にあるということです。それはあなたにとっても私にとっても同じであって、違いがあるように見えるとしても、私たちとは独立に存在している宇宙に対する視点や解釈の違いにすぎないのです。その法則は不変のものです。神が気まぐれに世界を操作することはなく、その法則が私とあなたで異なることはありません。「一角獣は確かに私にとっては存在したが、あなたには存在しなかった」などと聞けば、まさに非合理性の典型だと私たちは考えます。おいおい、いたのか、いなかったのか、どっちなんだよ?「このコンピューターはあなたが使うと上手く働くが、私だと働かない。やっていることは何も違わないのに」という言い方にも、同じことが当てはまります。私たちが常識とする理性は、今回コンピューターが異なる振る舞いをしたのなら、二人の間に、あるいは環境の中に、何か違いがあったはずだと主張するのです。
客観性を求める強い願望の影響は、人間の努力のほぼ全ての領域、科学的であろうとする全ての物事に及びます。「科学的」や「合理的」といった言葉を何らかの客観性に頼ることなく定義するのは、実際とても難しいことです。科学では、実験者は自分の実験から客観的な距離を保つことになっていて、自分自身と研究対象との間に必然的で排除不可能な繋がりの無いことが前提になっています。医学における客観性は二重盲検対照試験に具現化されていていますが、これはある治療法の客観的な効果を分離し、患者や医師の態度や技量とは無関係に、その治療法がどこまで「本当に効く」のかを知ろうとするものです。農業なら二つの同じ畑に作物を植え、一つの重要な変数だけを変えて収量の差を測定するでしょう。法律学では、裁判官は公平性を保ち「事実」のみを考慮することになっています。ジャーナリズムでの報道の客観性という信念は、記者というのは何であれ既に世に出ている事実を「報告」する人だということを意味しています。記者が実際そのような出来事に参加することがあってはなりませんが、もしそうなれば客観的でなくなってしまうからです。
決定論と客観性が一緒になって、一般的かつ無個性的に適用できるテクノロジーを私たちに約束してくれます。それを標準的な方法で使えば予測可能な結果をもたらします。科学実験が、有能な実験者なら誰でも再現可能とされているのと同じように、テクノロジーを使う人は交換可能です。機械文明はこの交換可能性に依存しているのです。物理的な宇宙を支配する力は方法と構造によってもたらされます。定められた手順に従えば、予測された結果が確実に得られます。処方したのが誰であっても、抗生物質を適切な量だけ客観的に決められた指示に従って服用すれば、連鎖球菌性咽頭炎は治ります。砲手の意図とは関係なく、砲弾の初期角度と推進力がコントロールされている限り、何があろうと同じ軌道を描きます。原始人が火打石を打つのと同じように、テクノロジー文明が物理世界を支配できるかどうかは、それをコントロールするための信頼できる一般化可能な方法を持つかどうかにかかっています。あるいは、そう思えるかもしれません。
この根本原理が礎となって、科学革命家たちを活気づかせ、理解とコントロールという企てを今も突き動かしています。ガリレオとニュートン以後の数世紀にわたって、〈科学の計画〉は世界の「理由」と「道理」をより詳細に理解することで支配の基盤を拡大し、そこにある現実をこれまで以上に細かく観察し、ついには素粒子レベルという基本的な領域にまで到達しました。ここにこそ、科学的理性を体現する決定論と客観性の構成要素があるはずでした。そして、災難が襲ったのです。
科学と理性にとって災難だったのは、素粒子レベルにおいて科学全体の基盤である決定論と客観性が成り立たないということです。現実の最も根本的なレベルで、(先に述べた一角獣やコンピューターについての例に現れているような)私たちの科学的な直観は、全くの誤りなのです。
その結果、過去80年の間に量子力学の解釈が盛んに行われるようになり、量子の領域の不確定性や観測者依存性と、私たちが「知っている」日常体験の世界の特徴である決定論や客観性とを一致させようとしてきました。このような試みはどれ一つとして成功しておらず、ニュートン力学とは対照的です。ニュートン力学は時流に合っていたため、それが意味することについて深刻な論争を引き起こすことはほとんどありませんでした。物理学の根幹をなす量子力学の解釈について、現在のところ合意が得られていないということは、量子力学が私たちの基本的な存在論とは相容れないことを物語っています。
量子力学が決定論と客観性にどのように反しているかを正確に要約することは、本書の範囲を超えます。この話題については一般向けに膨大な書物があり、特にポール・デイヴィス、ニック・ハーバート、デイヴィッド・ウィック、ロジャー・ペンローズ、フリッチョフ・カプラ、デイヴィッド・ドイッチュ、ジョンジョー マクファデンの著作をお勧めします。特に最後の二人がお薦めです。ドイッチュの『世界の究極理論は存在するか』は、いま流行の多世界解釈について明快に説明しており、マクファデンの『量子進化』は、測定の基本的なパラドックスについてエレガントにわかりやすく紹介しています。
量子力学による決定論の侵害が自己と世界に関する従来の信念に与える困難は、客観性の侵害ほど深刻ではありませんから、まず決定論から始めることにしましょう。決定論とは、初期条件が最終条件を完全に決定するというものです。言い換えれば、全く同じ実験を2回やれば、同じ結果になるということです。これは科学的事実を決定するために使われる再現性という要件において鍵となる仮定です。しかし量子力学でこの仮定は誤りなのです。電子や光子、あるいはどんな素粒子でも、スリットを通して検出器のスクリーンに投射すれば、最終的に検出される位置は毎回異なります。素粒子の全体的な分布は数式で完全に記述されますが、個々の粒子の結果はランダムです。あるものは左に逸れ、またあるものは右に逸れ、またあるものは真っ直ぐ突き進みますが、その振る舞いには説明がつきません[1]。これは非因果的なものであり、自然を十分に詳しく探求すれば全ての理由が見つけられるという〈科学の計画〉の中心的な仮定に反しています。還元主義というピラミッドの根底にあるのは、物質の無秩序で理不尽な振る舞いであり、これは科学の正統派にとっては厄介な事態で、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と抗議したほどです。
あなたがアインシュタインほど悩んでいないのなら、彼ほど深く考えていないからなのかもしれません。ですから考えてみましょう。光子の振る舞いに理由はありません。なぜ特定の経路を進んだのでしょうか? 答えはただ一つ、光子がそうしたからです。左に逸れたり、右に逸れたり、直進したりするよう仕向けたものは何もありません。
量子の不確実性が私たちに与えてくれるのは、人間生活に対する喩えと直観の新たな源泉です。ニュートンの決定論が助長した感覚は、私たちもまた単なる質量であり、私たちを取り巻く力によって人生の軌跡は完全に決定されているというものです。しかし、おそらく私たちは量子レベルの素粒子のようなもので、その進路は外部の力に制約されたり影響を受けたりしますが、あたかも自分で選択したかのように振る舞うのです。量子力学の喩えが示すのは、選択、自律性、自己決定です。以下の喩えが少々陳腐に聞こえたらお許しいただきたいのですが、もしかすると私たちは、置かれた状況というスリット開口部を通って、可能性の高い行き先に向かって打ち出されるのですが、その行き先か、あるいは他の遠く離れた行き先かを選択する力を、私たちは持っているのです。そして誰も私たちの行く末を予測できませんし、外部の力が私たちの選択に手出しすることもできません。
量子力学の喩えで、選択は量子のランダム性に相当する人間の性質です。どちらの性質も、他の単純なものに落とし込めず、また奪い去ることのできないものです。私たちは自分の選択について理由を述べ、正当化し、言い訳をすることができますし、自分が選んだことをなぜ「しなければならなかった」のか説明できますが、事実として選択肢は常にあるのです。正当化に陥ることで、私たちは力を手放すことになります。そして私は思うのですが、量子力学的なランダム性と人間の選択の対応関係は、はたして単なる比喩に過ぎないのでしょうか? 光子の回折について原住民に説明したら、素粒子も自分で進路を選ぶのだと言うでしょう。ランダムだって? くだらない! ランダム性なんて、世界が無個性な大衆や均一な構成要素でできているという考えを正当化しようとしているだけさ。みんな違っていたらどうなんだ? もし物質の一つ一つが唯一無二だとしたら? もし私たちが物質に押し付けている同一性が、マンフォードのいう巨大機械の画一化された消費者であり従業員である私たち自身の運命を投影したものに過ぎないとしたら?
スリット開口部を通過する粒子の経路を特徴づけるのと同じ不確定性は、放射性原子の崩壊、光子の偏光や電子のスピンなど多くの性質をも特徴づけます。しかし、従来の世界観に突き付けられた困難がそれよりはるかに深いのは、このような測定量がランダムなだけでなく、測定するまでは明確な状態を全く取らないように見えるからです。二重スリット実験やシュテルン=ゲルラッハの実験など数え切れないほどの干渉実験は、測定や観測がない場合、素粒子はあたかも全ての可能な状態を同時に占めているかのように振る舞うことを示しています。さらに、観測の存在そのものが観測されるシステムの進化に影響を与える可能性があり[2]、システムと観測者の間に物理的な力が作用していない場合であってもそうなるのです[3]。言い換えれば、観測者である私たちから「外部」へと切り離せる独立した宇宙は存在しないということです。観測者と被観測者は密接に結びついていて、この区別は突き詰めれば意味をなしません。個別ばらばらの自己は幻想なのです。そして、ガリレオのいう「一次的性質」、つまり測定器で測れるような性質は、全く一次的なものではなく、測定という行為そのものによって生み出されたものなのです。別の言い方をすれば、距離や時間や形といった特性は、自己と宇宙との関係がもつ特性であって、独立に存在する客観的な宇宙の特性ではないということです。第3章で描き出した、無の中に浮かぶ実体から切り離されたフォークに代表されるような素朴な存在概念は、現代物理学とは相容れないのです。
(後半につづく)
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注:
[1] デヴィッド・ボームが提唱した量子力学の「隠れた変数」という解釈は、決定論を復活させようと試みているが、隠れた変数は基本的に知ることができないため、完全な理解とコントロールという企ての救いにはならない。
[2] 観測を意図的に利用して現実に影響を与える例としては、「零位測定」や「量子ゼノン効果」について読むことをお勧めする。
[3] このことはアスペの実験で決定的に証明され、時空においてシステムの影響を受けた部分の光円錐の外側で観測が行われた場合に、観測者効果が生じることが実証された。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-6/
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