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苦痛との戦争
訳者コメント:
この節での著者の主張は「一切皆苦」を説く仏教に通じてきます。快い感覚に執着し、不快な感覚を嫌悪する。欲しい欲しいと執着する状態と現実の間にある乖離が「嫌だ!」となり、怒りとなり、それが自分を苦しめます。瞑想の目標は、不快な感覚を麻痺させるのではなく、そのことに気付いて怒りを手放すことにあります。
コントロールされた世界の典型である現代医学は、痛みを取り除くことを目的としますが、痛みと苦しみが別物であることを見落としてしまいます。苦しみは「嫌だ!」から生まれるもので、現実を拒否することから生まれるのです。現実の痛みから目を反らすことによって、苦しみから逃れることはできません。「もっと美しい世界」を目指して生きるためには、現実世界の痛みを知ることも必要なのです。環境破壊、虐殺、戦争、社会の不正義といったことに目を向ける意味も、ここにあるのだと思います。
それと同じように、身体の痛みを敵とせず友として、痛みの中にあっても苦しみを感じないようになるのが、本当の癒しなのだと著者は説きます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
5.10 苦痛との戦争
細菌との戦争は、コントロールに基づく医療システムの一つの現れにすぎません。コントロールを生み出している私たちの自己意識とは、異質で無関心な宇宙の中にいる切り離された存在というものです。自分自身を超えた大きな目的の一部などではないのだから、私たちは当然のように、その自分自身の安全、快適さ、喜びといった利益を最大化しようとするのです。テクノロジーはその野心が取る一つの形です。
人生の他の出来事と同じように、痛みに大きな目的や意味など無いのなら、それを避けない手があるでしょうか? この理屈は風邪やインフルエンザに関するものと似ています。もし基本的に私たちが競争社会に生きる個別ばらばらの存在であるなら、利害の一致は偶然によるものでしか有りえず、大きな目的は私たち自身の投影でしか有りえず、私たちの幸福は無関心というより敵対的な宇宙をコントロールすることによって与えられるしか有りえないのです。〈テクノロジーの計画〉の論理的帰結が、あらゆる苦しみの除去だということを思い出してください。これが実現可能な目標だという考えが、世界は本質的にコントロール可能だという思い込みの根底にあり、医学はそのコントロールを実行に移す最重要の技術です。
私たちの期待を盛大に裏切ってきたにもかかわらず、現代医学の完成が間近に迫っているという神話によれば、その驚異的な技術が人体を劇的に改善しようとしているのです。遺伝子治療は老化を逆転させ、ナノテクノロジーは癌を治療します。イヴァン・イリイチはこう書いています。「このような社会で人々が信じるようになるのは、医療において、他のあらゆる企ての分野と同様に、テクノロジーを使って人間の状態をほぼどんな設計にでも従って変えることが可能ということだ。[47]」自然を改良する技術者の「やればできる」という姿勢が推し進めた医療ブームは、1930年代から1940年代にかけての無差別な扁桃腺摘出術や、ここ20年間で当たり前に行われていた親知らずの抜歯や、テクノロジーによる出産過程の乗っ取りや、この原稿を書いている時点では、少なくとも人口の半数にはコレステロールを下げる薬が有効だという当局の発表があります。テクノロジー全般が自然には何らかの改良が必要だと言うのと同じように、医療技術も人体について同じことを想定します。それゆえ私たちは不要と思われる臓器、特に閉経後の女性の子宮を摘出し、ホルモン補充療法で体内の化学的状態を(良い方向に!)変化させるのです。そして、ナノテクノロジーや遺伝子工学による細胞や分子レベルのコントロールを洗練することで、より良い健康がもたらされると考えています。
コントロールという教条のせいで、こうした介入にもかかわらず、あるいは介入の結果として、持続的で全般的な健康悪化という事実が見えなくされています。ほとんどの医師が気付いていないのは、自宅出産が多数を占めるオランダで、重篤な出産合併症の発生率がアメリカのハイテク産科病棟よりはるかに低いことです。同じように、コレステロールを低下させるスタチンには恐ろしい副作用があるにもかかわらず、恩恵はわずかなものでしかないことが医師たちには見えていません。お仕着せの医療化という流れはさらに加速しています。公共の水道水に(すでに入っているフッ素のようなものに加えて)どんな薬を添加することになるのか、いったい誰がわかるでしょう?
この傾向の最終着地点はすでに見えています。あらゆる生活を医療化し、全ての人々を患者に変えるのです。ほぼ30年前にイリイチが書いていた指摘は次のようなものです。「一部の産業社会では、社会的分類が医療化され、全ての逸脱行為に医学的名称を与えることが当然のこととなった。[48]」子供の頃、私たちはソ連のやり方に恐怖を覚えたものですが、そこでは社会主義の理想郷に異を唱える者は誰でも狂っているに違いないという決め付けのもと、反体制派を精神病院に閉じ込めていました。現在私たちは同じような現象をより広い規模で目の当たりにしています。現代のテクノロジーの楽園、この管理下の世界で不幸だと感じる何千万もの人々は、何らかの精神疾患と診断され、精神に作用する薬物を投与されています。魂の破壊に抵抗する子供たちにも同じことが起き、「反抗的行為障害」や「注意欠陥障害」と診断されます。私はこれらの「障害」を、病気ではなく健康の証だと考えています。まともな心と強い意志をもつ子どもは、教室に閉じこもって何も考えず繰り返しの作業をこなして忙しく働くことに抵抗し、隙さえあれば遊びの瞬間を奪還しようとするのです[49]。また大人のうつ病は健康の証でもあると私は思います。怖じ気づいて創造的な目的から遠ざかり、生きる価値のない人生に甘んじるとき、魂はその人生から撤退することで反抗するのです。これがうつ病の麻痺です。「人生に参加しないほうがましだ」と魂は言い、心と体と精神を停止させることで決意を実行に移すのです。もはや生きる意欲を感じません。しばらくの間は意志の力と日常的な習慣が私たちを支え続けますが、やがて撤退を求める魂の声が否定できなくなり、臨床的うつ病や慢性疲労症候群などの苦しみに沈んでいくのです。
もうひとつ病理化された健康上の症状は不安で、「この辺りは何かが間違っていて、緊急の対処が必要だ」という感覚です。その何かとは何でしょう? またもや、カギを探して影の中を見ることを恐れ、些細な不安に目を向けてしまいます。しかしその根底にある感情は、世界の事実に対する正しい反応なのです。この辺りは確かに何かがひどく間違っていて、緊急の対処が必要なのです。身体的な面で不安に対応するのが、多種化学物質過敏症や線維筋痛症といった新種の病気です。(注意欠陥障害に対応する身体的な症状としては視力の問題や失読症があって、机に座らせることはできても、真っ直ぐ見るようにさせられないのです。)
このような精神疾患の医療化は、私たちが知っているような人生や世界には何の問題もないという前提の上に成り立っています。社会主義ユートピアの反体制派と同じように、この良い生活を送ることで、あなたが憂鬱になったり不安になったり集中できなくなったりするのであれば、お気の毒だが、あなたは病気です。問題なのはこの世界ではなく、あなたが選んだ人生でもなく、あなたの脳内化学物質にある。そして、それは調整可能なのだ。
肉体的なものであれ心理的なものであれ、痛みを消すことで得られる結果のひとつは、痛みを伴う世界がより我慢しやすいものになることです。「不快や痛みの強さが文化的に『我慢できない』ほどになるような社会は、終焉を迎えざるを得ない。[50]」もし、現代生活を送る上での心理的な痛みをコントロールするこうした医薬品がなかったら、私たちが知っているような社会はすぐに崩壊してしまうでしょう。同じことが個人レベルでも言えます。薬物療法のおかげで、はるかに高いレベルの痛みを伴いながらも社会が存続できるように、個人の症状を抑えることによって普通の生活が可能になるのです。プロザックなどのSSRI(抗鬱剤、選択的セロトニン再取り込み阻害薬)を服用している人たちから聞くのは、この薬のおかげで人生に対処できるようになったということです。その通り、これで普段通りの生活ができるようになるのです。
従来の精神医学が、薬物療法でも精神分析療法でも、大多数の患者を助ける力を実質的に持たないのは、私たちが生きている世界の誤りを認識しない、できないからです。精神科医たちは私たちと同じように、その誤りを受け入れてきました。精神医学が前提としているのは、誤った世界に満足すべきだということです。私たちに与えられた世界が正しいもので、少なくとも変わることはないという同じ思い込みが、「ストレスへの対処法」を探し求めることの根底にあるのです。人生が本質的にストレスに満ちたものであることは疑問視されません。精神科治療が深刻な精神状態に対処できないことは知れ渡っていますが、それは精神科医が社会のエリートとして完全に文化に染まっていて、自分たちが深く傾倒してきた文化の前提に疑問を投げかけることが体質的にできないからです。この文化に傾倒することで、誤った世界に対する患者の反応の根底には正しさがあり、根本的にはまともであることが見えなくなってしまいます。従来の治療法(特に薬物療法)は、病気を肯定することによって実際には病気を悪化させます。「そう、社会が提供する人生に問題はなく、問題があるのはあなたの方だ。」私が目の当たりにしてきたのは、「あなたは正しい、こんな人生は有りえません」と誰かに肯定するだけで、劇的な癒しが起きることです。その気付きが変化に力を与えるのです。精神医学が自身の変革の必要性を全く無視しているわけではありませんが、精神医学では変化を十分に深めることが普通はできないのです。要するに精神医学は、私たちは世の中に適応する必要があると言い、社会の一員として機能する普通の人間に戻そうとするのです。
そうではなく、私たちはそれ以上のものを求めているのです。「誰だって感じられるのは、現代社会の形や構造の下には空虚があることだ。」そのような社会に私たちを適応させようとする精神医学は、それ自体が狂っているのです。
家が火事なのに銀食器をせっせと磨くなんて、どうかしているでしょう。それと同じように、現代社会で普通の生活を送ることは非常識なのです。もし何百万人もの子どもたちが栄養失調でなければ、もし拷問が世界中で当たり前でなかったら、もし生物種や生態系全体が死滅していかないなら、もし大量殺戮が永遠になくなれば、もし私が本書で綴ってきたような不公平が存在しなかったら…、私たちに提示された「普通」の生活はまともになるのかもしれません。もしそうなら、プロスポーツや連続ドラマ、株式市場、物質獲得、有名人の生活に没頭する意味が出てくるのかもしれません。でも今の世界の現実を考えれば、生きる意味のある人生とは、非凡な人生以外にありません。
理想主義と反抗に燃えるティーンエイジャー、与えられた生活を拒絶して鬱屈した人々、何かがおかしいと感じる不安に苛まれる人々…、みんな至極まともなのです。このことを認めない精神医学は、最初から絶望的です。問題は世界ではなく自分自身の方にあるのだと、精神医学は言います。それは、私たちに語りかける「全てが順調で、全てが正常だ。そうじゃないと思うなんて、いったい何様のつもり?」という声の大合唱に加わるだけです。それは私たちを没頭させるメディアから私たちが受け取るメッセージと同じで、そこで取り上げられる題材が示唆するのは、スポーツや有名人など些細で表面的なことに関心を持つ余裕が私たちにあることです。また「エンターテインメント」への熱狂が示唆するのは、私たちの世界は十分に健全であり、そこから常に気をそらしている余裕があることです。「大丈夫さ、心配するなよ。」私は自分がタイタニック号に乗っているところを想像します。「おーい、みんな、かなり北にいるんだから、速度を落とすべきだと思わないかい? おーい、みんな、この先に見えるのは氷山じゃないのか?」
「チャールズ、リラックスしろよ! まあ一杯飲めよ。バンドの演奏を聴こう。全て順調だよ。ほら、誰も心配してなんかいないよ。」
私たちが今日生きている詐欺的で人生を否定する社会は、誰もなじめないだけでなく、その社会と人間の充足感との不適合は、年を追うごとに増すばかりです。それに伴って、ますます多くの人々を薬漬けにする必要性が高まっています。このような事態は、あらゆる年齢層でSSRIやそれに類する薬剤が使用されるようになったことに見られます。世界が肉体的な痛みを増しているのは、ますます有毒になってゆく環境が新たな病気を生んでいるからであり、商業と工業が食料供給を腐敗させ、普通の生活の速度と圧力が高まっているからです。これら全ての要因が、市民を患者へと加速度的に転換していくのです。
社会の医療化は、医師に権威を与えることを通して、別の意味で「管理下の生活」に貢献しています。私の友人の教師が言うには、学校の方針で3年生がトイレに行けるのは1日3回までで、例外はお察しの通り、医師の診断書がある子供だけだというのです。健康か病気かを判断する権限を医師に、つまり苦しみの有無の当事者ではない外部の人間に与えるとき、私たちは健康の第一指標である痛みを客観化しようとしているのです。痛みを定量化する直接的な試みは失敗に終わっている一方で、医師の診断書という見せかけの客観性(そして医療制度が生み出す膨大な書類という現在の形)によって、人間の健康はテクノロジー社会の枠組みに組み込まれることになり、他のあらゆるものと同じように標準化された匿名の客観的な工業的方法に従って扱われるべきものとなります。つまり、それは認定された専門家の領域となるのです。残念なことに、病気の客観化と医療の専門化によって、私たちは自分自身の身体からも切り離されてしまい、その結果、私たちは自分自身を癒すことができなくなり、以前にも増して痛みや病気を恐れるようになってしまいました。
痛みを消すことは、農耕の心理構造と奇妙なほど似ています。農夫が良い植物(作物)だけでできた畑を維持するために悪い植物(雑草)を抜くように、私たちは良い感覚と悪い感覚を区別します。コントロールされた生活とは、痛みの感覚を引き起こす可能性のあるものを排除することであり、それは苦しみそのものを無くすことに等しい目標だと、私たちは考えているのです。
痛みと苦しみの混同は根本的なものです。苦しみは痛みそのものから来るのではなく、痛みに対する抵抗から来るものであり、より一般的には人生に対する抵抗から来るものです。痛みを排除し自然をコントロールすることを前提としたテクノロジー社会が、地球上で前例のない苦しみを生み出しているのも不思議ではありません。自然の通常の成り行きに抵抗するテクノロジーが私たちの心理に反映され、人生の通常の成り行きに対する抵抗となります。私たちに内面化された暴君(文化の声)は、私たちのあらゆる感情や感覚を判断し、篩にかけ、良いものに固執し、悪いものを排除します。執着と嫌悪は、まさに仏陀が苦しみの起源としたものです。内面化された暴君は、私たちの思考や感情の全てを支配し続けようとしますが、それは絶えず監視を続けるオーウェルのビッグブラザーに他なりません。私たち自身の有限の一部が無限のものを支配する、この究極の専制政治において、〈思想警察〉は常にパトロールを続けています。
イリイチはこう書いています。「(健康とは)喜びの中にあっても〈痛みの中にあっても〉生きていると感じられることであり、それを大切にすると同時に〈生きるか死ぬかの危険を冒すことでもある〉」(強調は著者による)[51]。自由への第一歩は、感じるべきものを何でも完全に感じるということを、ただ自分に許すことです。これこそが瞑想の真の恩恵なのであり、心をコントロールすることではありません。これは神の贈り物を頂くことでもあります。もし神が善であるならば、全ての瞬間は贈り物であり、それを否定することは神から自分を引き離すことです。ユダヤ教とキリスト教の神秘主義者は苦しみをそのように説明します。
「痛みは消せる」という技術ユートピア的な約束が、私たちに痛みを感じる必要はないと信じさせてきたのであり、この信念が痛みへの抵抗を生み、苦しみをいっそう悪化させます。この約束が嘘なのは、痛みが避けられないものだからです。人間であるということは、痛みの中に生まれるということです。愛する人は亡くなります。良いことには終わりが来ます。私たちの身体は老い、病気になり、傷つき、いつかは死にます。テクノロジーがいつかこのような事を無くしてくれるかのように振る舞ったり、このような事が起きたとき痛みが無いかのように振る舞ったりするのはやめましょう。苦しみは、痛みを感じることを自分に許さず、痛みに抵抗するときにだけ生じます。世界がコントロールされている、痛みを感じる必要はないという大嘘を信じるなら、その努力は極めて理にかなっています。このような妄想のもとで行動するなら、必然的に自分の痛みに怒りを向けるようになり、被害者意識や権利の乱用に陥りやすくなります。
私たちは痛みと苦しみが同じものだと信じ込まされていますが、それが意味するのは、苦しみを軽減し、やがては無くそうという医療の企てに望みがないことです。しかも、苦しみは痛みそのものからではなく、痛みに対する抵抗から生じるものであるため、医学の焦点は痛みを無くすことであってはならないのですが、これこそ、還元主義的で対症療法的な医療が自然に陥りがちなことなのです。モルヒネのような鎮痛剤は貴重なものであり、医療においてその役割を担っていますが、真の治療者の役割は人生をより我慢しやすくすることではありません。対症療法とは本質的にそういうことです。そうではなく、治療者の役割とは、イリイチが示唆するように、患者が喜びの中にあっても痛みの中にあっても、より生き生きと感じられるように手助けすることなのです。私たちが医者に行くのは痛いからであり、医者は痛みを止めるために何かをくれるだろうと私たちは期待します。それは間違いです。痛みは私たちの友であって、追い求めるようなものでないのはもちろんですが、抵抗すべきものでもありません。痛みはそのままにしましょう。感じるべきものを感じるとき、私たちは自分自身と感覚とを切り離しておくことをやめ、より大きな全体性、より大きな健康を手に入れることができるのです。病床であろうと、人生の転機における精神的苦痛に直面していようと、間違った世界における人生の押し殺された苦悩に直面していようと、痛みを完全に体験すれば健康への扉が開かれます。
私たちが痛みを完全に体験することを許せば、外科医、ホメオパシー医、薬草医などの治療者の技を活用できるかもしれません。私は読者に全ての医療を放棄するよう勧めているわけではありません。分かってください。しかし、肉体的な回復だけが恩恵ではなく、それが幸いなことであるのは、癒しの結果が必ずしも私たちの望むものとは限らないからです。回復と同じように、死にも癒しがあります。痛みに抵抗しないことのもうひとつの利点は、思いがけない奇跡をもたらすことです。痛みがそれほど苦痛ではなくなるのです。たとえ強烈な痛みがまだ残っていたとしても、それほど苦しむことはありません。この点で、痛みは他のコントロールの対象とよく似ています。コントロールはそれ自体の必要性を生み出し、それが時間とともに強まって、代償はますます大きくなるのです。
健康とは、喜びの中にあっても苦しみの中にあっても生きるということです。私は、本書を癒しの作業だと常々思っていて、本書を読むことでより生き生きとした気持ちになってほしいと思っています。先に述べた鬱や不安症などに話を戻すと、私は「そんなに悪くないよ」「大丈夫だよ」と断言することで、苦しみを改善することはできませんし、そうするつもりもありません。そうではなく、あなたが疑っている通り、いや、それ以上に大変なことです。
私たちが危機の大きさと喪失感の大きさに目覚めたとき、多くの場合、最初の反応は押しつぶされそうな絶望です。私はそういう経験をしてきたので、それがどんなものか分かっています。しかし絶望の反対側には、満ち足りた気持ちと、人生を美しく生きようという衝動があります。私たちは違う世界を選ぶことができます。「私たちの心が可能だと教えてくれる、より美しい世界」のために、私はこの本を捧げています。でもそれを選択するためには、何を選択しようとしているのかを熟知していなければなりません。これまで私たちが選んできた世界を熟知していなければなりません。世界の痛みを知ることで、私はエネルギーに満たされ、自分の人生が向かう先の正しさを確認することができます。そうでなければ、くだらないことや虚しいことに時間を費やし、死ぬまでできるだけ長く快適に過ごすことを、私に止めさせるものが何かあるでしょうか? 幸せな人生を送るために醜さや痛みから目をそらす必要はありません。無知は至福ではないのです。それどころか、私たちが自分自身を隔離すればするほど、私たちは弱くなり、現実を受け止めることができなくなります。痛みを麻痺させ、先延ばしにすればするほど、私たちは痛みを恐れるようになり、(一時的には)安心で、予測可能で、コントロールされた、私たちの社会が提供する見せかけの生活の中に、自ら進んで服従するまでになってしまうのです。
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注:
[47] イリイチ [Illich,] Medical Nemesis(邦訳『脱病院化社会―医療の限界』), p. 73
[48] イリイチ [Illich,] p. ***
[49] ADDや鬱などの精神疾患についての同様の分析は、反逆の心理学者ブルース・レヴィンの『Commonsense Rebellion(常識の反逆)』を読まれたい。
[50] イリイチ [Illich,] Medical Nemesis, p. 135
[51] イリイチ [Illich,] p. ***
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-10/
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