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文化の資本(後)

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前半から続く

同じような状況がイノベーションにも当てはまるのは、科学的発見の自由な利用が、その応用に関する法的所有権によってますます制限されているからです。生物医科学の領域で、従来から行われていた情報や菌株などの自由な交換が崩れつつあるのは、遺伝子操作された微生物が特許を取得できるようになった、つまり所有できるようになったからです[14]。かつてなら科学の進歩は競争よりも協力に基づいていました。人々は学術誌や非公式な交流を通じて新しい研究成果を共有し、研究成果から金銭的な利益を得なければならないという圧力からは、大学の給料によって守られていました。企業の研究費でキャリアが左右されるようになり、成果を特許化することに研究者や大学の金銭的利害が絡むようになった今、秘密主義の新時代が幕を開けました。この発端となるのは、新薬や遺伝子組み換え生物の特許が潜在的に持っている利益です。建国者の意図に反して、この場合の知的財産が科学の発展を阻害するのは、科学がそれまでの成果を基にして進歩するものだからです。共有するのではなく隠匿するという動機が働くと、これはもう不可能になります。所有物とはコモンズの一部を私有のものとして囲い込むことに他ならないのに、科学的知識を所有物に変えたら、他に何を期待できるというのでしょうか?

アイデアの所有権に反対する道徳的な主張も、同じような根拠に基づいています。アイデアは何もないところから出てくるものではありません。それらは文化的共有財産という原材料が融合して作られ、取り巻く文化との共鳴と関連性に依存しています。例えば、ミッキーマウスが魅力的なのは、(A)ネズミという小さくて地味な生き物であること、(B)大きな目、大きな耳、その頭に対して小さな体で描くことで得られる効果によります。したがって、ミッキーの魅力とその商業的な大成功は、文化的な原材料や人間の知覚の文化的な特徴といった共有財産の一部をなす要素を利用したものです。

最近エクソンとケロッグの間で両社のブランドを売り込むために使われた漫画のトラをめぐる裁判がありました。「エクソン・ガス・タイガー」と「トニー・ザ・タイガー」です。この二つはとてもよく似ています(そして『くまのプーさん』で有名な「ティガー」や、漫画『カルビンとホッブス』の「ホッブス」にも似ています)。この二つの企業の一方は、もう一方が自社の商標権を侵害していると主張し、文化的に非常に深い共鳴を引き起こすトラという動物の、一つの表現に対する所有権を、実質的には主張しているのです。トラは自然の一部かもしれませんが、強さ、力、美しさを連想させるトラのアイデアやイメージは、一種の文化資本です。トラに見えるようにトラを描いたり、トラから連想されるものを描いたりする方法は限られているので、この訴訟の当事者たちは、かつて公的なものであった文化資本の私的所有を肯定したようなものです。

誰かが「物語のアイデア」を思いついたとき、それは本当に初めて創られたものなのでしょうか? おそらく全ての物語は、ほんの一握りの典型的な筋書きのバリエーションにすぎません。そして確かに全ての物語は語り手が実際に体験した人々や実際の出来事を基にして描かれます。確かに作者は独特な方法でそれらをまとめるかもしれませんが、控えめに言っても作者が物語の所有権を主張などできるものでしょうか? 文学作品の学術的な解釈を読むと、原作者がそのような意図を持っていたはずはないと感じざるを得ません。作者たちが物語の創造者ではなく、チャネル(つまり伝達者)に過ぎないのであれば、そのような意図は必要ありません。どんな創造的な仕事も自分自身より大きな源から生まれるというルイス・ハイドの意見に、私は同意します。私たちを通して、女神ムーサは偉大な原型と普遍的なテーマを届けてくれるのです。その所有権を主張するなら、大きなものを小さなものに従属させることになります。真の芸術家は、作品の前では謙虚です。

私も自分の本で生計を立てようとしている文筆家の一人として言います。私はいくつかのアイデアを新しい方法で表現し、古代のアイデアのいくつかを現代生活の側面に当てはめはしましたが、 アイデアそのものを私が所有するつもりはありません。ましてそれを表現するために使われる言葉など? どうすればそんなことができるでしょう? 何らかの形で、このようなアイデアは何千年にもわたって人間の心に息づいてきたもので、それぞれの時代で新たな形を見せるのです。人類共通の遺産の一部を私個人の所有物として囲い込むのは思い上がりでしょう。それが、この本の内容を全てオンラインで公開する理由の一つです。このついで書いておけば、営利目的でない限り、本書を「複製、再版、検索システムへの保存、電子的、機械的、複写、記録、その他のあらゆる手段による送信」を、ここに全ての人に許可します。装丁を変えて本書の言葉を販売することを私は許可しません。あなたが作成したコピーは、無料でのみ配布することができます。

メロディー、言葉、イメージ、アルゴリズム、さらには生命の遺伝子コードそのものを所有しようとする現在の動きは、17~18世紀イギリスの〈囲い込み条例〉による村の共有地コモンズの私有化と非常によく似た、新たな囲い込み運動です。かつては公のものであり誰もが使えた言葉が、現在では企業など組織の所有物となり、特定の用途では他の人々が使用できなくなっています。“I’m lovin’ it”(私はそれが好き)はマクドナルド社の所有です(つまり、その語句の特定の使用に関する独占的権利を持っています)。“Make every drop count”(一滴一滴を大切に)はコカ・コーラの所有です。“Ideas for life”(暮らしのためのアイデア)はパナソニックの所有です。“Always”(いつも)はウォルマートの所有です。“Making life better”(人生をより良いものに)はペンシルバニア州立大の所有です。これらの言葉はたいていの目的には使って構いませんが、組織のスローガンとして使うことはできません。ペンシルバニア州立大はその権利を獲得したのです。ナイキは“Just do it”(やるんだ)を獲得しました。ドナルド・トランプは“You’re fired!”(お前はクビだ!)を獲得しました[訳註]。これらは、公の言葉から収奪された何万もの一般的な言い回しのほんの一部に過ぎません。

モーセ五書にも新約聖書にも登場し、道徳哲学の根幹をなす“Love thy neighbor”(汝の隣人を愛せよ)という言葉でさえ、今や所有権の対象となっています。2001年に、“Love your neighbor”(あなたの隣人を愛せよ)を使用していたミシガン州の宝石商が、類似した名称が顧客を混乱させ利益を失ったとして、“Love thy neighbor”という名称のフロリダ州の慈善団体を商標権侵害で訴えました[15]。被告側は、「5千7百年前から存在する」表現について権利登録が可能であることに驚きを隠せないと述べました。法律論はさておき、原告は本当にこの語句に対する権利を持っているのでしょうか? 彼がその表現を作り、概念を考案したのでしょうか? それとも、単に文化のコモンズの一部に縄を張り、そこに最初にたどり着いたという理由だけで、自分の使用と利益のために権利を主張したのでしょうか?

音楽はどうでしょう? 私たちは全く何もないところから新しい曲を生み出すのでしょうか? 私たちは本当に新しいメロディーを発明し、新しい物語を語ることができるのでしょうか? それとも、過去の創作者たちの無数の作品を寄せ集め、人類圏を自由に漂うアイデアをつまみ取り、ある特定の聴衆に、あるいはせいぜい世界中の聴衆にアピールできるように、アレンジしているのでしょうか? 中世の吟遊詩人にとって、ある曲の所有権を主張し、他人にそれを演奏しないように要求することは、図々しい驕りに見えたでしょうし、部族の語り部にとって、このような態度は神を冒涜しているとしか思えなかったでしょう。物語と歌は、神々からの神聖な贈り物だったのです。

テクノロジーの発明についても同じような議論があります。これも複雑で創造的な母体マトリックスから生まれたものであり、文化の中にあるアイデアに触発されたものなのです。このため、ルイス・マンフォードは特許を「発明を生み出した複雑な社会的プロセスの最後の一歩であることを理由に、一人の人間が特別な金銭的報酬を要求することを可能にする装置」と定義しました[16]。

正当に自分の物でないのに自分の物だと主張するのは窃盗です。私たちの文化遺産であるコモンズに対し永続的な権利を主張することは、私たち全員から盗むのと同じです。このように見れば、音楽や映画をダウンロードする学生たちは、知的コモンズに対する現代の新しい土地収奪に反抗しているにすぎないのです。彼らは、トーマス・ジェファーソンが明確に述べたことを感じ取っています。いかなる人もアイデアを所有する道徳的権利は持たないのです。

豊かな文化遺産は 「公共財産」のままであるべきだと言いたいところですが、この言葉を使うと、「財産」という言葉が文化遺産にも適用できるという危険な前提を補強することになってしまいます。文化のコモンズは、それ以前の村の共有地コモンズと同様、かつては人間の所有権の範囲外の世界でした。現在そのような領域はありません。所有されるものから出来た人間の領域は、全てを覆い尽くすまでに拡大しました。

私が提唱している人間存在の革命は、財産の個人所有から共有への単なるマルクス主義的な移行よりも、はるかに深いものです。所有そのものが時代遅れの概念となるでしょう。

所有という概念には大きな傲慢さが潜んでいます。所有は物を人間に従属させ、束縛されない野生のものを所有物、つまり我が物にします。ウェンデル・ベリーはこう言いました。「彼(神)は存在する中で最も荒々しい存在だ。私たちの中に神の魂が存在することが、私たちの野生であり、〈創造〉の荒野と一体化することなのだ。だからこそ、自然のものを人間の目的に従わせることは非常に危険であり、しばしば悪をもたらし、分断と冒涜をもたらすのだ。」[17]

もちろん、自然のもの、文化のもの、魂のものを、私たちが所有物にして服従させようとしても、それは認識の中だけのことで、実際には服従していません。私たちの認識の中でのみ、それらは所有物へと落とし込まれ、もはや私たち自身より大きなものではなく小さなものに、もはや未知の神秘ではなく所有物のカタログとなるのです。物にとって、私のものであるとは何なのでしょうか? 自分が所有していると想像することで、その本質を変えてしまうのでしょうか? 特許、語句、文章、イメージ、音など、私たちが「知的財産」と呼ぶものは全て、文化の宇宙を私たちが断片に切り離して私物化したものです。何かを私的なものにする、何かを所有するとは、どういうことなのでしょう? 何が本当に変わるのでしょうか? 版権がいつ移譲されたのか、歌には分かるでしょうか? 著作権がいつ切れたか、物語には分かるでしょうか? 何が変わったかといえば、私たちの集団的な認識だけです。結局のところ、財産とは社会的な慣習であり、ある物を特定の方法で使用する排他的な権利に関する合意です。しかし、私たちはこのことを忘れてしまったようです。財産は何か本質的な意味で私たちに属するものであり、私たちのものだと考えているようです。財産は私たち自身の一部であり、財産を所有することで自分をより大きく、より偉大な存在にすることができると考えているようです。

重要なのは、財産を定義する社会的合意を支えているのは力であることです。もし私があなたの土地に不法侵入してその合意に背いたなら、社会的に定義された排他的権利をあなたが維持するため、脅したり(例えば警察という代理人を通して)物理的な力を行使したりできるでしょう。財産は人間同士の力関係を規範化します。一般にはあまり認識されませんが、それに劣らず力と支配に満ちた世界全体との関係を、財産が具体化しているのです。

所有の概念を変え、宇宙を所有物に変換することを捨てるのは、世界との関係における自分自身について根本的に異なる概念を持つことを意味します。それが意味するのは、全世界を制圧し、支配下に置き、我が物にするのをやめて、手放すこと、境界線を緩めること、かつて「天の恵みという摂理」と呼ばれていたものを信頼することです。あらゆるものの所有権化の中にまたしても見えるのは、完全なコントロールというテクノロジーの計画と、その基礎である完全な理解という科学の計画の残響です。私たちの社会経済システムと生活様式は、現実に対する私たちの信念と切り離せません。それは私たちの存在論、宇宙論、そして自己定義です。我が物にし、自然を征服し、神秘を征服することが全てです。征服することは我が物にすること、所有することです。現実の全てに所有権を与えるのは、まさに「宇宙の支配者にして所有者」になるということです。

財産の世界はまさに「切り離された人間の領域」であり、本書でその起源を火、石器、言語、数にまで辿りました。それは、名前を付けられ、番号を振られ、人間の所有の下に置かれる世界であり、そこで価値を定義するお金は、純粋に人間による抽象であり、切り離された自己が求める利益の代弁者なのです。世界でますます多くの地域が貨幣経済に参入するにつれ、切り離された人間の領域は拡大し、野生は縮小していきます。全ては、飼い慣らされたものの輪を照らし出す火のたきぎとなり、いま火柱のあまりの高さに、どこへ行こうと私たちはその熱を避けることができません。

所有されたものの領域は拡大を続けます。コルベットはある色合いの赤を、[宅配運送の]UPSはある色合いの茶色を所有しています。これらは電磁スペクトルの一部です。これらの企業がその色を創り出したのでしょうか、それともただ壁を作って囲い込み、自分たちの色と呼んだのでしょうか? ハーレー・ダビッドソンは、オートバイのエンジン音にも同じことをしました。音楽、画像、文章がデジタル化できる限り、知的財産は数字の所有に帰結します。それは第2章で述べたように世界を数字に変換した後に待っている、自然な次の段階なのです。こうして私たちは所有権を拡大し、電磁波や数字、DNA、音波という現実の根源的なものまで取り込みました。これらが「知的財産」とみなされるのは、またもや私たちが人間よりはるか以前からあるものを支配していると思い込む傲慢さの表れです。私たちは、既にそこにあったもの、つまり現実の基盤を掴み取っただけです。言葉であれ土地であれ、売買の連鎖の始まりに、誰かがそれを単に私物化したことは間違いありません。P.J.プルードンが1840年に宣言したように、「財産は窃盗」なのです。

私たちが世界を我が物にして所有することは、壮大な窃盗です。その犠牲となったのは共有財産です。土地、遺伝子、母なる文化です。財産とは、私たち全員から、あるいは自然から、あるいは神から盗まれたものだと言えるでしょう。いずれにせよ、私たちが世界を所有するようになると、世界から疎遠になっていくのは自然で避けがたいことであり、それゆえ結局のところ、私たちは我と我が物の牢獄の中で苦しむのであり、どんなに大きな財産を持っていようと、その牢獄は私たちが生まれた無限に広がる野生の世界よりも、はるかに狭く薄暗いものなのです。


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注:
[14]マサチューセッツ工科大の遺伝学教授Jonathan Kind博士のコメントに基づく。 ベルナルド・リエター [Bernard Lietaer] が“The Future of Money”(邦訳は『マネー崩壊―新しいコミュニティ通貨の誕生』小林一紀・福元初男訳、日本経済評論社、2000年)で引用.
[15] “Trademark Litigation Hall of Fame”(商標訴訟の殿堂), Overlawyered.com, 2001年4月, http://www.overlawyered.com/archives/01/apr1.html, および “Michigan Lawyer’s Demand: get your case off my website”(ミシガン州弁護士の要求:私のウェブサイトからあなたの案件を削除せよ), Overlawyered.com, 2001年6月, http://www.overlawyered.com/archives/01/june2.html
[16] ルイス・マンフォード [Lewis Mumford,] Technics and Civilization, p. 142
[17] ウェンデル・ベリー [Berry, Wendell.] “Christianity and the Survival of Creation”(キリスト教と天地創造の存続). “Sex, Economy, Freedom, and Community”(性、経済、自由、共同体). Pantheon Books, New York, 1993年. P. 101

[訳註] ドナルド・トランプというニューヨークの不動産ディベロッパーが全米で知名度を得たのは、2004年1月にNBCで始まったリアリティショー“The Apprentice”(アプレンティス=見習い修行)に出演してからだった。番組参加者がさまざまな苦労を重ねながら「見習い」として働き、最後に採用か不採用かが決まる場面で、トランプが不採用者に浴びせる“You are fired!”(お前はクビだ!)という非情な決め台詞は流行語にもなった。https://mediajuku.com/article/122
 トランプは2004年に“You’re fired”を商標登録しようとしたが米国特許庁に却下された。https://www.dailysabah.com/americas/2017/08/20/trump-failed-to-trademark-youre-fired-in-2004-but-it-still-followed-him-into-white-house


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-05/

2008 Charles Eisenstein


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