生命の起源(後)
訳者コメント:
今回はダーウィン説の言う進化の無目的性を批評します。私たちは「利己的な遺伝子」の生存戦略を達成するための道具でしかないのでしょうか? それはダーウィンが生きた時代の「犬が犬を喰らう」世相を投影したものではなかったのでしょうか?
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
(前半から続く)
ネオダーウィニズムが主張する生物発生と進化の、もう一つの重要な特徴は、そこに目的や意図の無いことです。レプリケーター(自己複製子)はタンパク質被膜などの機能を発達させようと計画したわけではありません。新たな突然変異は偶然に起きたのであって、それが生き残れたのは、この新たな形態がより上手に生き残り、複製できたからに他ならないのです。進化とは、複製可能な分子の空間を、無作為にあてどなく探索することです。現在、私たちが目にする途方に暮れるほど複雑な生命体は全て、今や遺伝子となったレプリケーターが生き残って自己増殖するための装置に他ならないのです。
したがって、人間を含む生物の行動についての基本的な説明は、その行動が生物に競争上の優位を与え、よりよく生き残り、遺伝子を受け継ぐことを可能にするから、遺伝子はそのような行動をプログラムするということです。ですから動物の行動を観察するとき、ダーウィン主義の生物学者は「そのような行動が競争上どのような優位性をもたらすのか?」と問いかけ、そのような観点での説明を求めます。遺伝子は基本的に生物の形態や行動を「プログラム」していると考えられ、突然変異した遺伝子は別の行動をプログラムするかもしれず、それが生殖の可能性を助けることもあれば、助けないこともあるでしょう。そうなるものは生き残り、そうならないものは死滅します。同じような考え方が人類学と古生物学の研究の根底にあって、またしても科学者はこう問いかけます。「そのような行動が競争上どのような優位性をもたらすのか?」あるいは、「この(生物学的または技術的)適応は、生存にどう貢献するのか?」ダーウィン主義が暗に含む前提は、「競争と生存」が生物界を理解するのにふさわしい言葉だということです。
いま私が知っているほとんどの人は、遺伝子の自己利益を情け容赦なく最大化するような行動はとりません。それは、ありがたいことに、文化が私たちを十分に条件づけて、道徳と倫理をもち、社会的に責任ある存在にしてくれたということなのでしょうか? それともその逆でしょうか? 反対に、私たちの本性は愛であり、全体性であり、創造性なのに、文化が私たちに生存への不安を植え付け、それが私たちの本性の表現を妨げているということなのでしょうか? あなたが「正しいことをしたい」、人のために尽くしたい、良い仕事をしたいと心から願っても、「そんな余裕はない」と感じることはないでしょうか。これは大切な問いです。より広い意味でのテクノロジーによる自然の征服と並んで、現代の遺伝学の理解が、人間の本性に対する戦争の動機となっているのです。
ランダムな突然変異に基づいている以上、進化には方向性も目的もありません。したがって、遺伝子によってプログラムされたものを除けば、人間の存在には根本的に何の目的もありません。最も単純な言葉で言えば、生命の目的は生き残ること、つまり生存と繁殖です。それが、ドーキンスの言う「究極の理由」なのです。
この言葉の意味を過小評価しないために、愛の「究極の理由」が何なのかを検証してみましょう。遺伝子は母親が自分の子孫を愛するようにプログラムします。なぜなら、愛を形作る行動は、子が成人まで生き残って同じ遺伝子を次の世代へと伝えるのに役立つからです。私たちの遺伝子は、特定のタンパク質の生産をコード化し、それが分泌腺と神経系を構成する機械の材料となり、そこで生産されるホルモンや神経伝達物質を、私たちが愛として体験するのです。また恋愛は最も明らかな方法で、同様のメカニズムを通して遺伝子の複製に貢献しています。これらは遺伝子の生存複製戦略に大きな利点をもたらすので、時たまの「誤用」、例えば他人の子たち、あるいは人類全般、生命全般に向けられることがあったとしても、持つだけの価値はあるのです。愛についての宗教的・精神的で感傷的な理論はすべて忘れなさい。その本質は、あなたの遺伝子の生存を最大化する方法にすぎないのです。
これが「自然淘汰」であり、生き残るための闘いです。ダーウィン主義は生命の世界が本質的には壮大な生存競争であると見ていて、その中で生き残る生命体は希少な資源をめぐって他の生命体に打ち勝ったものたちなのです。まるでダーウィンが生きた時代の社会のようではありませんか! 犬が犬を喰らう世界と言われた自由放任主義経済の時代、自然淘汰による進化論は直感的に明らかだと感じられたに違いありません。そして人生は競争であるというだけでなく、競争は良いことであり、進歩の原動力なのです。生物学的進歩(つまり進化)だけでなく、テクノロジーや経済の進歩も同様です。この見方が〈テクノロジーの計画〉を動機づけるのに役立っているのは、そのおかげで私たちは自然界を支配する(つまり、打ち負かす)ことができるからです。それは自由主義経済理論の中にはっきりと見え、そのモデルは競争がもたらす肯定的な結果を示します。経済言説とダーウィン進化論との間には、ほぼそのものといえるような類似性があります。適性のある企業が生き残り、適性のない企業は絶滅し、競争環境が全ての企業に効率化と革新による継続的な改善を迫るのです[31]。競争がなければ、何が企業を昨年モデルの改良に向かわせるでしょうか? 思い浮かぶのは、旧ソ連の「恐竜」企業のイメージです。
実のところ、私たちが生命と進化の原動力とみなす競争は、私たち自身の文化的信念の投影に他なりません。私たちが自分の不安を原始人に投影するのと同じように、現代人の生活におけるあくなき競争心を自然に投影しているのです。もちろん競争は自然の重要な一部分ではありますが、それが原動力だとか、決定的な特徴だとか、進歩の推進力だとは思いません。第6章では協力と共生的融合に基づくもうひとつのパラダイムを提示しますが、それは全く異なる文化的価値観を招き入れ、全く異なる経済とテクノロジーのシステムを特徴づけるかもしれないものです。
競争に基づくダーウィン主義のパラダイムは、それを取り巻く文化から支持を得ただけでなく、その文化を強化しました。それは、金持ちと貧乏人の間にあったひどい社会的不平等や、様々な「人間の種族」の間の関係を正当化しているようでした。金持ちや権力者はより「適性」があり、それゆえ繁栄に値しましたが、哀れにも貧乏人は適者でなく、その滅亡は自然の摂理以外の何物でもありませんでした。リベラル派と保守派はこの大前提で意見が一致しており、それにどう対処すべきかという点で意見が分かれていただけでした。リベラル派はこれらの劣等民族や人種の苦境を嘆いて打撃を和らげようとし、人間は野蛮な自然より上に立つことができると主張しました。一方、保守派はこの遺伝子の選別を良いことだと考えました。中には、遺伝子プールを弱体化させ適性のない者が生き残ることを許すからという理由で、貧困層の待遇を改善するために政府が介入することに何でも反対する者さえいました。このような考えがさらに極端になって起きたアメリカの運動がありました。それはニューヨーク州コールド・スプリング・ハーバーで組織され、精神病患者や囚人のような「劣った」人々を強制的に不妊手術することによって、遺伝子プールを意図的に強化しようというものでした。ドイツではもちろん、この「優生学という科学」がホロコーストの動機づけとなりました。
これは、還元主義(落とし込み)の原理が工業技術とコントロールという企てにつながり、生命を文字通り「落とし込み」、小さく少なくする一つの方法なのです。コールド・スプリング・ハーバーとナチス・ドイツの優生主義者たちにとって、〈人類の改良〉という究極の技術事業を進めるための「科学的」根拠が、ついにここに現れたのです。ナチスの企ての合理主義的な外見には、野蛮さを隠す以上の理由がありました。それは優生学という事業全体の基本だったのです。さらに、客観的な科学的探究の特徴は研究者が研究対象から距離を置くことですが、これが被害者を非人間化する一因ともなりました。すると、アドルフ・アイヒマンのような当たり障りのない技術官僚が、ホロコーストの後方支援で重要な役割を果たしたのは当然でした。ホロコーストは、原料、製品、仕事の専門化、予算といった工場の言葉に置き換えれば、他の工業技術の問題と認知的には何も変わらないのです。
社会ダーウィン主義[個人・集団・国家・思想における競争が人間社会の進化をもたらすとする理論]の責任を、そして民族浄化の責任を、謙虚で人道的なチャールズ・ダーウィンに押し付けるつもりはありません[32]が、科学理論が社会環境から切り離されて存在するものではないことを示したいのです。ダーウィン主義はそれを受け入れる環境の中で生まれ、その概念が今度はそれまでの傾向を強化し加速させました。ダーウィン主義は、「競争は善である」、「競争は自然のやり方である」、「競争は進歩の原動力である」といった考え方の原因であると同時に結果でもありました。同じように、より深いレベルでは、ダーウィン主義はそれに先立つ数千年にわたる分断の結果であり、その分断を現在の絶頂へと加速させる大きな推進力でもありました。ダーウィン主義は、私たちを定義する〈個別ばらばらの自己〉というイデオロギーを生物学に投影するのに必要な、科学的な装置を成しているのです。
自然界(そして人間界)において競争が第一という考えは、客体的な宇宙に生きる個別ばらばらの自己というイデオロギーと密接に結びついています。資源をめぐる競争という人生に必要なのは競争相手であり、利害が対立する個別の主体であって、それが生存のための絶え間ない闘争の原動力となるのです。それは生命と資源の区別をも意味し、私たちの認識では自己と世界の区別に相当します。
これらの相互依存関係から避けがたくなるのは、〈分断の時代〉が私たちの思考を支配している限り、どのような現実的困難に遭遇しようとも、ネオダーウィニズムの〈大統合〉が正統派として君臨することです。実際、最初のレプリケーターの出現を説明しようとする現在の試みは、深刻な、おそらく克服不可能な難問にぶつかっていますが、理論家たちは「このようなことが起こったに違いない、他に有り得ない」という線で片付けようとします。ランダム突然変異と自然淘汰に基づく進化の物語全体が、このような困難に悩まされています。その原理にひそむ困難は、さまざまな書き手が「ブートストラップ問題」や「還元不可能な複雑さ」と呼んでいるものです。還元不可能な複雑性については第6章で詳しく検討しますが、それはこの問題の本質が、本書で示唆してきた自己概念の違いを、はっきりと指し示しているからです。ダーウィンの時代でも現代でも、生命の起源と進化についての標準的な理論が受け入れられた理由は、科学的に優れた点があったというよりも、自己と世界に関する私たちの概念全体の中に組み込まれたからです。
科学に詳しい読者のために、もしまだ私が本心では「インテリジェント・デザイン(知的設計)論」[ダーウィンの進化論に対して、生命や宇宙の複雑な構造には変異や自然選択では説明できない〈知的意図〉が介在したと主張する説]を信じていると疑っているのなら、あなたは本書をあまり注意深く読んでいないのです。私から見れば、機械論とインテリジェント・デザイン論の対立は表面的なものでしかありません。どちらも、魂があるとすれば全て外から来ると示唆しているのであり、そのような外部の魂、知性、あるいは組織原理が存在するかどうかという点で意見が分かれているだけです。私が提示する別の考え方は、第6章で展開する強固な土台の上に成り立つものですが、ここで少しだけお目にかけます。
このような世界観の転換が、私たちの生き方に重大な意味を持つのはもちろんです。これまで、テクノロジーは自然進化を論理的に延長するものであり、他の生命体を打ち負かし、環境からより多くのエネルギーを取り出すという生物としての責務を、加速させるものと考えられてきました。テクノロジーの歴史がこれを裏付けているようです。石器時代にはわずか数百万人だったのに対し、現在では60億人の人類を養うのに十分な量まで地球の受ける太陽熱とバイオマスを奪い取ることができるようになったのは、テクノロジーのおかげです。しかし、現在の私たちの生活様式や地球との関係が持続可能でないことは、ますます明らかになってきています。第1章で見たように、〈テクノロジーの計画〉は失敗しつつあります。おそらく、共生、相互連結性、創発的秩序に基づく生命の進化についての新たな理解が、新たなテクノロジーのあり方にも着想を与えるでしょう。それは私たちを他の生命と対立させるものではなく、私たちを自然から切り離すものではなく、テクノロジーがもたらした生活の専門化と大規模化が引き起こす苦悩、疎外、孤独、無力感に、私たちを追いやるものでもありません。
注:
[31] 裏を返せば、生態系を語る際に、経済用語が多用されるこということ。様々な適応の「利益」と「コスト」のように。
[32]例えば、『The Descent of Man(人間の由来)』(p.201)には、人類の将来の進歩についてこう書かれている。「その結果、断絶の幅が広がる。その断絶は、現在のように黒人やオーストラリア人とゴリラの間ではなく、コーカサス人よりも文明化された状態の人間と(そう望みたいが)、ヒヒのように下等な猿との間に介在するからである。」
訳註:原文では "of which God is an inseparable property" で、神が不可分の property であるというとき、いわゆるプロパティ(属性情報)では意味をなしません。Property にはもう一つ、所有物・財産という意味があり、むしろこちらであろうと思います。形容詞 proper の「固有の」という意味の名詞形です。属性であり所有物であるという意味を拡大解釈して「不可分の本質」としました。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-3-07/