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ベビーサークルの中の人生

訳者コメント:
 子供の頃から高校生・大学生になるまで、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけないと、親から、学校から、社会から言われ続けます。面倒な問題を起こさないように、安全柵の中に囲われているのです。安全で無難な人生の中に閉じ込めようとするのです。子供たちが持っているのは、そう言われなければ自由に世界を探索したいという欲求です。それが否定されるから、破壊の衝動という形で噴き出すのです。そのような欲求や衝動が枯れてしまった状態が「成熟した大人」で、それが社会の部品として望まれているのです。
 でも、枯れたように見える探究の衝動は、水をやりさえすれば息を吹き返しますよ。大人になったあとで探究の旅と学び直しをできた自分の体験から、私はそう思います。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


5.11 ベビーサークルの中の人生

〈細菌との戦争〉を伴った現在の医療制度には、コントロールの一般的な特徴が現れています。対抗するもののいない免疫系が発達できず過敏になるのと同じように、痛みを麻痺させ先延ばしにしようとする努力に比例して痛みがより恐ろしいものになるのと同じように、 危険や試練や不快感から自分を隔離することで私たちは弱くなり、世界を恐れるようになります。

自分の限界を探求する機会を剥奪されると、私たちは限界を恐れ、強く縛られるようになり、コントロールしようと努力しても、現実が突き付ける新たな試練に対処できなくなります。この剥奪は幼少期の早い段階から始まり、ベビーサークルやヘリコプターペアレント、より一般的には現代社会に蔓延している「安全第一」の体制という形を取ります。イリイチによる健康の定義の後半部分を思い出してください。「それを大切にすると同時に生きるか死ぬかの危険を冒すことでもある。」伝統的な社会には、子供たちが自分の限界を探求する生産的で公認の方法がありました。探究するのは本物の限界で、ベビーサークルで囲われた安全という偽物の自由ではありませんでした。しかも子供たちの失敗が招く結果は現実のものでした。親はこう言うかもしれません。「あの蜂の巣をつついちゃダメだよ、蜂に刺されるよ。」しかし子供がそれをしようとするのを力や言葉で強制して止めさせようとはしないでしょう。その結果、親の声は現代の親たちが行使する恐怖に基づく強制力をはるかに超える権威を獲得し、同時に子供は結果が現実であることを学んだのです。

学校で暗黙のうちに学ぶことの一つは、行動に本物の結果が伴わないことだと、ジョン・テイラー・ガットーは述べています。子供たちには基本的に、現実の物事で失敗することが何も許されていません。教師も親も「自尊心を高める」ためにいい加減な仕事でも褒めてやりがちですが、子供自身が少なくとも最初のうちはその違いを分かっていることを、教師や親は理解していません。しかしやがて、子供は権威から与えられる賞賛と、創造の過程で得られる本物の満足とを混同してしまい、成績のため、顧客のため、給料のために何かをする人生への準備をすることになります。このようにして私たちは早くから何が本当に好きかを知らない人間になってしまい、情熱を感じることがなくなり、生きることへの熱意を失います。裏を返せば、本当の罰がなければ反社会的な行動に何の結果も伴わないと子供たちに教えることになります。しかし罰といえども本物の結果の代用品にすぎません。

息子のマシューが4歳か5歳のとき、兄と同じようにポケットナイフを欲しがりました。私は彼にナイフを与えることにしましたが、「マシュー、このナイフは鋭いよ、気をつけないと怪我するよ」と注意深く説明しました。何が起きたでしょう? もちろん彼は注意深くなかったので怪我をしてしまいました。ひどい怪我ではありませんでしたが、痛かったし血も出ました。マシューはここから何を学んだでしょう? ひとつはナイフが本当に危険だと知ったことです。許可なく使用すると捕まる可能性があるからではなく、それ自体が危険だということです。マシューが学んだ二つ目のことは、父さんが賢い男だということです。ナイフについては父さんの言う通りだった。父さんが何か起こるかもしれないと言ったら、耳を傾けた方がいいな。

子供たちの生存不安を力ずくで呼び起こすよう、私たちがどんなに深く徹底的に子供たちを怖がらせたところで、子供たちが持っている自然な好奇心と、限界を試したいという衝動から、最終的には「とにかくやってやれ」という気持ちを起こします。よくあることですが、結果が親の言うほど悪いものではないと分かったとき、親の権威は失墜します。室内で紙飛行機を投げたところで誰の目も潰れないし、マリファナを吸っても麻薬密売所で目覚めることはないし、ハリー・ポッターを読んでも悪魔の儀式の生贄にはならないことに、子供たちは気付いてしまいます。これで悲劇の舞台は整います。一方で、子供たちは自分の行動の本当の結果から常に隔離されてきました。もう一方で、子供たちに課された結果の代用品(つまり罰)が効き目を失ってしまうのは、ずる賢いティーンエイジャーが問題の行動を差し控える代わりに権威を欺くことによって、いとも簡単に罰を回避してしまうからです。その結果ティーンエイジャーはあたかも自分が不死身であるかのように振る舞い、自分のすること全てについて両親に嘘をつくようになるのです。

人間には本来、境界を探ったり限界に挑戦したりする欲求があるので、現代の安全への強迫観念はティーンエイジャーを違法で危険性の高い「リスク行動」へと駆り立てます。自分の限界を知りたいという欲求は、例えば親元を離れて大学進学するように自由を初めて味わったとき爆発します。悲劇的なことに、このような行動を取ったところで意義のある境界に挑戦し押し広げることはできません。避けられない現実とは、自分の境界を探るのは本質的に安全ではないけれど、それ以外に成長する方法が無いということです。5歳の息子が「お父さん、この木にどれだけ高く登れるか見ていて」と言うとき、私はめさせようとする自分を抑えます。そして実のところマシューはかなり慎重なことが分かりました。私が権威を振りかざして「あの枝より上には行くな!」と言ったからではなく、彼自身の慎重さから登る高さを制限しているのです。想像してみてほしいのは、慎重さの限界に達する前に親の権威で子供の探求を何度も止めたとき、何が起こるかということです。自分の代わりに安全と危険を決めてくれる外部の権威に依存するようになる一方で、自分自身の判断力は萎縮していきます。自分の判断力を養う機会がないため、このような人はいつも無謀な危険を冒すようになります。しかし逆説的ですが、危険を権威が定義することへの依存が慢性化しているので、このような人は恐怖によって支配されやすいのです。(この政治的な結末は読者の想像にお任せします。でも想像力はあまり必要ありません。新聞を読むだけで十分です。)

もちろん木登りが危険であることも、セロテープでは木材をつなぎ合わせることができないことも、今日は長袖では暑すぎることも私は知っていますし、科学の専門家なら食事や運動、学習、健康維持、安全確保のための最新で最適な方法を教えてくれるでしょう。しかし、私が真実と思うことを述べる、つまり「マシュー、そのセーターを着ると暑くなるよ」と言うのと、誰かにそれを守るように強要するのは別々のことです。ガットーが言うように、「信奉者たちが我々の人生のために立てた計画は、公的な基準に照らし合わせれば我々が自分で作る人生より『優れている』かもしれないが、個人的な闘争を否定するのは彼らの人生から人間性を奪うことである。闘争が奪われた後で我々に残されるのは、言葉では何とも言い表せないようなショトーカ[*]、つまり、全ての規則を守りさえすれば良い生活が得られるという不誠実な約束に振り回される偽りの世界だけなのだろうか?[52]」 [*ショトーカ(Chautauqua)とは、19世紀末から20世紀初頭にアメリカで流行した総合文化イベント、教育的サマーキャンプ。]

付け加えておきますが、私は2歳の子供を車の行き交う通りに飛び出させるようなことはしません。私は、子供たちの理解を超えた危険からは守ってやります。

安全という体制は、人生、自己、世界、目的についての根本的な仮定に源を発する「管理下アンダー・コントロールの世界」が持つ一面です。その源にある生存不安を含んだ理解は、私たちの本質(つまり、個別ばらばらの主体であること)と、私たちがここにいる理由(つまり、ただ生存し繁殖するための闘争が無作為に現れているという以上の理由はないこと)です。よく知られているように、安全なことが楽しいなどというのは、まず有りえません。安全なことは、その定義上ほぼ予測可能であり、「危険」を生む無作為な変動要因はありません。同じ意味で安全は新しさを追求する創造性とは相容れず、したがって遊びにも反するものです。そのため、組織化されず監視されていない遊びは廃れ、その代わりに抑制され管理され計画された遊びが好まれるようになったのです。

古い境界を超越しようとする、つまり成長しようとする人間の先天的な衝動をしずめるために、安全という体制は絶え間ない維持を必要としますが、これはコントロールされた世界の他の部分と同じことです。コントロールは、最初は外からの明らかに強制的なものでしたが、次第に微妙なものになり、より深く内面化されていきます。通常このような超越への衝動が目に見える形で最後に現れるのは思春期で、若気わかげの至り、ティーンエイジャーの反抗、あるいは若者の理想主義という名で呼ばれます。20代前半までに私たちのほとんどは学校や刑務所のような露骨に強制的な施設の外でも信頼されるだけの「自制心」を身につけます。そのとき私たちの魂は死に、「成熟」と呼ばれる状態に達します。死んでいないとしても、少なくとも打ちのめされ、くじかれ、鎮圧されるのです。しかし成長を求める根源的なエネルギーは挫折したとはいえまだ潜在しており、人間の創造的エネルギーを弱めることで成り立っている社会にとっては潜在的脅威なのです。そのため社会がこのエネルギーを向ける先は、現状を脅かすことのない様々な非合法あるいは常識に反するようなけ口です。これがベビーサークルの中の生活であり、あまり面倒なことを起こせないよう封じ込められた環境なのです。

特に示唆に富む例が三つあります。第一は「自分を浪費する」行為、つまり薬物やアルコールの乱用など自己破壊的な行動で、これと似たものにスカイダイビングやスピード違反のように危険度の高い行為や、それを模倣した遊園地でのアトラクションがあります。事実としてでも認識の上でも、限界を超越するための他の道が全て否定されたなら、自己破壊的な行動は当然の結果です。他に方法が無いなら死ぬことで自分の境界を超えてやる!

もう一つ自己に対する暴力と関連した起源を持つのが、世界に対する暴力です。それは壊したいという欲求、私たちを停滞させておこうと企んでいるように見える世界を打ち壊したいという欲求です。巨大な怒りが私たちの礼儀正しい仮面の下に潜んでいて、叩き壊したい、焼き払いたいという衝動が、支配権力の崩壊する最初の兆候として現れます。通常、社会がこのような暴力の矛先を向けるのは、現体制の維持のために重要ではない生贄いけにえのような存在で、基本的に「他者」という社会的分類に入るものであって、少数民族、外国人、他の生物種、あるいは土地そのものなどです。先に私は暴力を「否定された憧れ」と定義しましたが、ジョセフ・チルトン・ピアースも同じ考えに沿って、超越の挫折にその源を遡ります[53]。暴力は、私たちの心が可能だと語る、より美しい世界、より美しい人生を実現する可能性が全く見出せないときに起こるものです。

境界を拡大したいという欲求が別のところに向けられた第三の例は、スポーツチーム、映画スター、テレビのキャラクターに自分を重ね合わせることですが、それは偉大なものを目指して努力し自分の限界に挑戦するという体験を、二番煎じの偽物として私たちに提供するものです。もちろん、実際にスポーツに参加すれば(そして劇に参加すれば)、自分が何者であるか、何ができるかという限界を試す本物の機会が与えられ、したがって人間の可能性を開花させることの一環となり得ますが、たいていの場合、私たちは他人がやっているのを見ることに落ち着きます。もう一つのけ口は、不謹慎なヘアスタイル、反抗的な服装、無作法な音楽、奇抜なスニーカーなど、ショッピングを通じて個性を主張するというまがい物の反抗心です[54]。

このような捌け口や気晴らしは一時的に私たちをなだめてくれるかもしれませんが、人間の魂はやがてその詐欺に気付き、正真正銘の超越を求め始めます。自分の限界を探求し成長したいという自然な欲求が満たされないことから生じる潜在的な怒りを封じ込めるには、外からであれ内からであれ、精緻なコントロールの仕組みによる他ありません。そしてもちろん、コントロールは欲求不満を悪化させるだけで、それが怒りを悪化させ、さらにコントロールを強めることが必要になるという悪循環が際限なく続きます。前に述べたように、幼少期において支配は親からの拒絶が暗示する生存への脅威により確立されます。支配は早くから内面化され、常に強化される必要がありますが、それは人間の魂が強いからです。私たちは(怒りに埋没しているので)怒りの対象を見定めることができず、そのため怒りをぶつける対象も手段も権威によって許可されたものだけになります。偶然にも本物の標的に当たって現状を脅かすようなことになれば、その罰は迅速かつ確固たるものです。私たちが権威の形や制度や職員に対して怒りをぶつけたときに学ぶ教訓は、抵抗は無駄だということで、高校生がトイレで発煙筒を焚けばそうなります。学校の権威に異議を唱えると、学校側はパニック発作を起こします。独立の学生新聞、上級生の悪ふざけ、突然に学生全員が黒服を着るような自然発生的な象徴的反乱。私の学生の一人が、その典型的なイメージを語ってくれました。校長が生徒の前で非公認の学生新聞を振りかざしながら歩き回り、憤慨してこう叫びます。「やったのは誰だ? 名前を言え!」

こうして、先に述べた悪循環の典型例として、学校における管理体制は容赦なく強化されていき、今では多くの大学で、ビデオカメラ、警察官の巡回、金網フェンス、無作為の抜き打ちロッカー検査、金属探知機、麻薬探知犬、密告者を使った情報網、生徒を装った覆面警察官、各生徒の許可された居場所を常に記録するための包括的な入退室管理システムなどが導入されています。刑務所や全体主義社会で生きるための準備として、これほど完璧なものがあるでしょうか。その結果は、技術的対策の連鎖から予想されるとおりのものです。コントロールの強化によって、事態は安全になるどころかますます危険をはらんだものになり、さらなるコントロール強化を正当化します。それは〈テクノロジーの計画〉がもたらす結果と似ています。実際のところ、生活は以前より安心できるものでも、のんびりしたものでも、快適なものでもありません。

全体主義は、現実を完全にコントロールするという〈テクノロジーの計画〉に基づく社会の必然的な終着点です。実際問題として工学的・経営的な考え方は、当然ながらその手法、つまり工場の手法を、製造だけでなく統治にも適用し、国民の完全な目録を作り、追跡、番号付け、分類を促進します。その技術はコントロールにも適したものです。私たちの眼前にあるのは、コンピューター時代における生体認証と継続的な自動監視という、ジョージ・オーウェルを彷彿とさせる可能性です。より理論的なレベルで自他の区別が偽りだということが意味するのは、他者である世界をコントロールすれば結果として自分自身にもコントロールが及ぶということです。マルティン・プレヒテルが言うように、「全世界がフェンスで囲われ農業の対象になれば、私たちはみな刑務所に入ることになる」のです[55]。あるいはデリック・ジェンセンが言うように、「私たちが他人を投獄するなら、身内の一人を看守として牢獄に入れねばならず、同様に自分自身の一部を幽閉するなら、他の部分も含めて同じ地下牢に移さねばならない」のです[56]。世界を完全にコントロールすることは、必然的に私たち自身をも、集団的・政治的なレベルとともに、個人的・道徳的なレベルで完全にコントロールすることにつながります。コントロールが強化されるたび、個人や集団としての人の魂は新たな出口を、自由への新たな扉を求め、それがピシャリと閉ざされると、憧れはますます強まることになります。コントロールされた世界は蒸気を漏らす圧力釜のようなものです。漏れを塞ぐたびに圧力は高まり、以前は見えなかった他の継ぎ目が破裂します。完全なコントロールという企てが熱望するのは、漏れる可能性のある場所を全て完璧に塞ぐことです。その時どうなるかは読者の想像にお任せします。

世界をコントロールすることは本質的に自然からの分断を伴いますが、それはテクノロジーという概念そのものが、操作しようとする現実をモノ扱いすることを必要とするのと同じことです。コントロールとは自然の成り行きを回避したり変更したりすることを意味します。もちろん第2章で述べたように、自然の各部分は常に環境に対して意図的な影響を及ぼしていて、コントロールは人間の専売特許ではありません。ですからコントロールと分断はある意味で「自然」なことなのです。多くの哲学者が見るように、人間は自然の一部なのですから、私たちのすることは全て自然なことだと考えることができます。人間の害は、私たちが自然から切り離されているという誤った信念から生じるのであって、実際に切り離されているから生じるのではありません。この分断という誤認のせいで、私たちは自然の法則からまぬかれることができると思い込んでいるのです。ふつうに使われる「自然」という言葉そのものが問題の徴候であり、あたかも自然ではない適用外の領域が別にあるかのようです。ですから私が自然からの分断について語るとき、本当に言いたいのは忘却であり、脱離であり、妄想のことです。自然の法則や過程プロセスが私たちには適用されないと思わせているもの全てのことです。

全ての生物が環境を支配していると口にするなら、自己と世界の本質に関する陰湿な偏見を密かに持ち込むことになります。コントロールが意味するのは、不確実性を減らし、有害な可能性を減らし、都合の良い可能性を選択することです。それは環境に対して権力を押しつけることも意味します。しかし自己と環境がそれほど厳密に区分けされず、生命体が単に資源を奪い合う個体としてだけでなく、全体を機能させるために不可欠な器官と見なされるようになると、コントロールという概念の全体が一貫性を失います。同じように環境も、特定の生物が持つ効果を引き出すために各々の居場所を提供していると見ることができます。全ての生物の行動は地球生態系の働きに貢献しているのです。自然界には廃棄物というものがありません。熱放射を除けば、何も外へ捨てるものはありません。「外」という場所は存在しないのです。そうではないと自分で思い込んでいることが分断の過ちなのであって、実際に自分を自然から切り離せているわけではないのです。

もし人間の行動とテクノロジーが、このような非二元論的な自己と環境の見方から生まれるようになれば、意識をもち自己を認識する存在である私たちの目標は、完璧なテクノロジー社会というギリシャ神話のような理想に込められた自然の征服ではなく、私たちにふさわしい役割を発見し、それを果たしていくことにあるはずです。自然を動かしている規則やパターンにテクノロジーを合わせようとするはずです。廃棄物も外部性エクスターナリティーも無くなるはずです。この後の章で提唱するのは「自然に立ち返る」ことですが、それはテクノロジーを放棄するという意味ではなく、テクノロジー社会のあらゆる活動を自然の法則とプロセスの観点から捉え直すという意味です。自己と環境という二元論的な分断が本当に妄想であると分かれば、それ以外のことをするのは愚かなことです。次の章では、第3章「この世界のあり方」で提起した科学的な問題に戻り、単なる物体でしかない宇宙の中の個別ばらばらの自己という認識の科学的基盤が、どのように崩壊したかを述べていきます。


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注:
[52] ガットー [Gatto,] p. 129. ショトーカ(Chautauqua)とは、彼の著書にある社会工学の理想を指している。
[53] 超越の必要性と手段、それを妨げたことで起きる結果についての驚くべき説明は、ピアースの『The Biology of Transcendence(超越の生物学)』を参照。
[54] この現象についての雄弁で熱のこもった概要は、『Commodify your Dissent: Salvos from The Baffler(異論を商品化せよ:困惑の集中砲火)』(トーマス・フランク、マット・ウェイランド編 W. W. Norton & Company 刊, 1997年)をお読みいただきたい。
[55] マルティン・プレヒテル [Prechtel, Martin,] 2003年9月、グリーン・ネーションズ集会での講演。
[56] ジェンセン [Jensen,] p. 320


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-11/

2008 Charles Eisenstein


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