人は幻想を泳ぐ事で生かされるのか
久しぶりのnoteを書く。
旅が終わり、大学を卒業し、夏からインドで仕事をすることになりそうだ。
そんなおれが今思うこと
自分はリアルを生きているつもりでも思い出という幻想を泳いでいるということ。
僕は目の前で起こること全てを楽しもうと、日々を送っている
クッソ暇な仕事、友達と話すこと、本を読むこと、お酒を飲みながら話すこと
そんなリアルを送っていながらも、僕はどこかあの日あの時見た旅の風景を思い浮かべたり、あの時の音楽を聴いていたりする
フィリピンで英語もわからないのに助けてくれたニコルの家族、Baguio、DilawのUhaw
ラオスでジョーとバイクを駆け抜けた日々とジョンメイヤーのSlow Dancing in a burning room
インドでカオスの中も3ヶ月生き抜けた日々
バリのクラブでたくさん聴いたRema&セレーナゴメスのCalm Down
アフリカで右も左もわからずバンに乗せられたり沢山の嫌なことが訪れた後の親切、これを歌えばみんなが平和になったJonathan nelsonのI Believe
ヨーロッパでひとりぼっちの僕が聴いていたLes misérableのミュージカルのナンバー
シンガポールマレーシアタイで毎日オリアンと聴いていたOcie elliottのI got you honeyとHollow CovesのHello
知らず知らずのうちに僕は思い出の中を泳ぎ回っている気がする
リアルを100%生きたい
でも、泳ぎ回ることは悪いことではないと思う
そして、恋愛にも同じことが言えるのかなって最近思う
ましてや遠距離恋愛をしていたら特に。
人間はとても都合のいい生き物で、自分にとって幸せで大きなインパクトを残した思い出ほど忘れ難い。
そんな刹那を生きた結果が思い出の中を泳がせる。
皮肉なことだと僕は思う
リアルに集中したいが故に刹那を生きる
その結果、刹那を生きた思い出の数々がフラッシュバックするのだ
好きな人と過ごしたかけがえのない日々、そんな素敵な思い出の中を泳ぐことにより、人はより一層愛を持ち、その人へ期待し、想いを馳せることが出来るのだろう
そんな思い出は時間が経てば経つほど幻想のようなものになる
「思い出=幻想」という式を成り立たせるのは難しいが「思い出→幻想」は成り立つ事があると僕は思う
思い出は確かに僕らが生きた日々の証だ
しかし幻想になると、それは美化されより神秘的で良い側面しか見せてくれない
そんな幻想を抱く訳ではない。
そんな幻想の中を生きるのだ。
僕はその生き方が間違っているとは思わない
人生には波があるとおもう
おもろいことばっかり起きて幸せで楽しい瞬間
平凡でつまらない瞬間
そのどっちもあとから振り返れば崇高な思い出となる
そして幻想となる
リアルを生きるという表現はもしかすると間違っているのかもしれない
リアルは生きていれば目の前に自ずと訪れるもの
主体的であるよりも受動的なものなのかもしれない
そうすると、僕は生きる事がもっと楽になる
リアルを受け入れて思い出の中を生きていく
こんな日々をたまには送っても良いんじゃないかと思えてくる
素敵な幻想で自分自身を満たしていこう
幻想の中でもっと自分を泳がそう
それが生きるためのヒントの1つなのかもしれないから。
P.S. 僕は夏からインドで働くことになりそうだ
旅中でも3ヶ月ほど滞在したインド
インドを旅できたという自信とは裏腹に、多くの現実と対峙し、何もできない自分の無力さを痛感させてくれたインド
そしてその両方の気持ちに折り合いをつけながらバランスを探す事が人生を生きる1つのヒントだと教えてくれた
必要以上に絡んでくるけど悪気はなく見方を変えれば優しさで溢れているインド
人は誰かに頼る生き物だと身をもって教えてくれたインド
あの地にいると自分は生きているという気持ちと同時に、生かされているのだと度々思い出すことができる
そんなインドで次は働くというステージに立つ
しかし、きっとやることは変わらない
1つでも多くの人生に関わって本気で向き合って楽しさや幸せを共有すること
インドで出来たら次はパリ、アフリカでも出来るはず
まだ見ぬ自分を見てみたい
まだ見ぬ世界を見てみたい
まだ聴こえてない声を聴きたい
まだ話せてない人と話したい
まだ出逢えてない人と出逢いたい
案外そんな理由だけで人生って思いも寄らぬ方向へと舵がきれる
まだ達成出来ていないことが多すぎる
そんな状態はとても幸せである
新しい日々への一歩を
今までの自分への賞賛を
そんぐらい自分に甘く生きてこ