
Photo by
harunatelier
簡潔を求め過ぎないという知性
短く、簡潔に伝える。
現代の人は「わかりやすく、簡潔に言う」というところにニーズがあり、言いたいし、伝える時もそのような形だとありがたいと思っている。
そして何よりそういう人が賢いし、憧れの的にもなっている。
けれどそれと反することを書いた者もいた。
「定義はむしろ最後にくるのが、哲学には似つかわしい。
定義は、単純、簡潔といった徳目とおなじく、ひとが最後にたどりつくものであろう。」
つまり始めから簡潔や単純を求めるものではないと言うのだ。
それは行き着くもの、積み上げた先の結論であり、その道のりが学ぶということであり、学んだ者の簡潔な言葉は確かに響くものがあろうが、それをそのまま口にしては、いささか迫力にかけることもあろう。
その迫力みたいなものを得るためには、簡潔ではない時間、なんだかよくわからない時間が必要なのであり、それを携えて歩いている時間が、その人の言葉の簡潔さに結果的につながっている。
急がば回れとはよく言ったものだが、言葉の説得力みたいなところも、そういうものが、もしかすると影響しているのかもしれない。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
時間が解決することは、たくさんある。