NOを言う、嫌悪感を出す
ボクは幼少期から身体が小さかった。
そのため親はボクがいじめられてしまうのではないかと不安だったそうだ。
でも幸いというか、そういう目には一度も合わず、攻撃や嫌がらせなどもほとんどされたことがなく、学生生活を終えることができた。
しかし周りを見渡すと、親の心配も一理あるようにも思えた。
義務教育時代、ボクの前後の身長の小さい子たちは、何らかの技をかけられたり、少しこき使われていたりして、他の子より小さいことで不都合なことが生じていたのを見かけたことがあった。
しかし小さいということでやられるならば、ボクももれなくやられていたはずだが、免れていたのは、小さいこと以外に境目があったことを想像させる。
なんだろうと考えていると、浮かんだのがNOと言うことだった。
ボクは「したい」とか「これやりたい」は薄かったが、「イヤだ」「やりたくない」「やめろ」というNOの意思表示は同級生、教師含め、隠さず伝えていたように思う。
さらにそれに伴う嫌悪感や表情、態度も出ていたはずで、それを伝える相手には、それがなくニコニコしている相手よりは、はるかにやりにくいのじゃないかと振り返れば思う。
そしてこの姿勢は大人になってもある程度大切で、会社や地域コミュニティ、または行政や国政の部分なんかでも、反対とか嫌悪感を出さなければ、相手が侮ってくるということは、変わらず起こってくる現象なのだろう。
いろんなものに敏感に怒れとか、そういう話ではないけれど、しっかり許せないものを持っている。そしてその意思表示ができる。ということで守れるものがあるのではと思うと、じぶんのそういうものについて考えたくなってくる。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
ひどい政治のニュースが続いてますが、ボクらの無関心や嘘のニコニコが、彼らをどんどんバカにしている気がしています。