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予定がある、忙しいことのハリ

忙しいは心を亡くすと書く。



だからこそ心を心として保つために、忙しさには気をつけている人が多いのではないかと思われる。



それでも日常の荒波の中にいたら、それこそがむずかしく、忙しいに取り込まれてしまう。



だからといって外界からの接触や刺激を減らせば減らすほど、心は心としてあれるかと言われれば、それもまたむずかしい。



じぶんでじぶんを蝕む言葉や行動は、暇から発生していることも多く、適度な関わりが心を保つきっかけでもある。



こんな話をしていると、結局バランスなんでしょ?ということになり、もちろんそれはその通りなのだが、忙しい時以上にバランスを崩しても分かりにくい暇の方に今日は注目したい。




時折人には社会との繋がりが絶たれる時がある。(繋がりが切れるきっかけが忙しさだったりするのだが。)



そうすると突然の暇が訪れる。



最初のうちは休憩できてよかったり、誰のニーズに応えることなく、好きなことができる喜びに満ち溢れるが、少ししてくると、戻れるのかという不安や、どこにも繋がれていないじぶんを感じて、社会からの疎外感を感じてしまう。


それはやはり心が心であれなくなってしまうのだと思う。



何もしなさすぎだよ。
そう心が訴えているのかもしれない。



そんな時、ひょんな重なりから予定が詰まっていたり、少し忙しいことが心を落ち着かせてくれることがある。



やらなければならないことのおかげで、余計なことを考えなくて済んでいる。



忙しくても暇でも日常には支障をきたす。



そしてやはり戻ってくるのは、各人にバランスがあり、その人なりの忙し過ぎず、暇過ぎずがあるということなのだろう。



じぶんの忙しいとは?暇とは?そのいいバランスとは?



心が心であるうちに問うてみてもいいのかもしれない。




今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
腹八分目的な感じでございましょうか?

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