みんなの学校
11/4 日本橋映画祭 サイボウズbar
この映画は映画館ではなく、希望者に貸し出しという形でのみ上映、観賞が出来るという映画で、大阪の公立 大空小学校の「すべてのこどもに居場所がある学校をつくりたい」という木村校長を始めとした教職員の方々とそこに通う子ども達、親御さん、地域の方達の関わりと学校、地域、社会の変化を追った作品になっている。
*より詳しいこの映画のサイトの紹介文が短くまとまっていたので、一読して読み進めてもらえるとありがたい。
http://minna-movie.jp/intro.php
早速だが、僕がこの映画を観て感じたのは、人は大人も子どもも、ふれあって育つ、ということ。
そして人が欲しいものもまた人とのふれあい、関わりだということ。
映画の中では、学校やクラスに馴染めない生徒にスポットが当たり、その生徒が抱える葛藤やジレンマや身体的ハンディなどを教職員の皆さんや校長先生、そして何よりその彼らも含めたクラスの生徒達がお互いに寄り添い、話し、聴き、考え、変えていく、その中でお互いが成長して、結果的にその空間がみんなにとって居心地の良い学校に変わっていく様子が映画では描かれている。
映画の中の一つのケースで言うと、自分の心や気持ちが乱れた時に暴力や暴言を吐いて周りの子と関わってしまう子(大人と呼ばれる人でも難しいように思うが…)がいた。
皆さんならその子とどう接するだろうか?
僕は、大人であるのをいいことに、ダメだよ、とかいけませんと一方通行に注意してしまうところだ。
ところが、大空小学校で行われていたのは双方向のフラットな関係の対話だった。
どうして暴力や暴言を吐いてしまったの?
何でそう感じたの?
暴力や暴言をしてしまってどう思った?
クラスメイトはどう思ってどう感じているかな?
クラスメイトと本当はどうなりたいの?
ならあなたはどうするのが良かったかな?
今じゃああなたができることは何かな?
その子はそうした対話の中で、自分の頭と心で考えていくなかで、皆の前で目を潤ませながら、「暴力と暴言をしない人になりたい」と自身の目標を話すシーンがあり、クラスメイト、教職員の皆さん、そして映画を観ている我々も彼が変わっていくのを感じ取ることができる、そして自分の心の中にも変化を感じるという印象的なシーンだった。
ここで大切なのはお互いに、という相互的なところ、循環なのではないかと思う。
与え続けるのも、与えられ続けるのも、一方通行だと、人はどこか苦しいと感じてしまう。
人とのふれあいの中で、その人との関係性のいい塩梅のところで、共に許しあって、認めあって、信じあって、活かしあう。
そのためには、まず目の前の一人一人の人とていねいに向き合うということ。
その上で違いを受け入れて、お互いを活かしあうことの大切さを改めて僕はこの映画から学んだ。
舞台は小学校ではあるが、お子さんを持つご家庭や教職の方々はもちろんだけど、それ以外の人にも観てもらいたいと感じた。
なぜならそれはこの映画の伝えるみんなの学校とは、みんなが助けてくれる、支えてくれるところでもあるけれど、みんなのためにわたしは何ができるのか?
の心を育んで実践していく人と空間を生み出す挑戦に他ならず、その空間は小学校に限ったことではなく、皆さんの住む地域、街、会社、学校、家族、友人、恋人あらゆる人との関係性の中で生み出すことができるはずだからだ。
一人ではもしかしたら何も変わらないかもしれないが、最初の一人すらいなければもちろん現状は何も変わらない。
人は周りの人間に影響される生き物だ。
あなたが見てみぬふりをすれば、あなたのいる空間は見てみぬふりをする空間になる。
わたしは今みんなの、目の前の、あなたに何ができるのか?
と日々行動して生きていれば、あなたのいる空間はみんなの学校になる。
そんなつくる人、まず与える人になりませんか?
と、この映画は今を生きるあらゆる人々に問いかけているように感じた。
最後にこの度このような機会を頂けて、発起人の竹本有希@yukineko15さん、並びにサイボウズbar,コルクラボの皆さん、本当にありがとうございました。
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