勉強しすぎると馬鹿になるか?YES。世界はもっと面白い。
勉強ばかりしていると新しい問いが生まれない?
「勉強しすぎると馬鹿になるか?」という問いへの答えは、「勉強」の範囲をどう定義するかによると思います。
が、普通に「勉強」の定義と考えられている、教科書を読んだり、知識を詰め込んだり、文献を読んだり、論文を書いたり、というようなことばっかりをしていると馬鹿になるとは思います。
なぜか?
それは、新しい問いが生まれないから、です。
そんなことをこの本を読んで改めて考えました。
「なぜ格差が広がっているか?」は大事な問いか?
例えば、この本でも例に上がっていますが、「なぜ格差が広がっているのか?」という問いはいろんな研究者が取り組んでいる問いだと思います。
これは格差の拡大が大きな社会問題となっている現代の世界において大事なテーマとは思います。が、それは本当に最も大事な問いなんでしょうか?他の、より大事な問いはないんでしょうか?
クラブで遊んで見えてきた新しい問い
例えば、六本木のクラブに行って遊んでいる(=普通は勉強とは考えられない)と、年収5000万のエリートサラリーマンと、フリーターのにいちゃん(多分年収300万くらい?)が一緒になって酔っ払って楽しんでいる様子が観察できたりします。
大きな格差がありそうな2人ですが、仲良くなってたりします。(少なくとも表面上は。)
これを見ると、「どう格差をなくすか?」ではなく、「格差があってもみんながハッピーに一緒に生きてけるにはどうしたらいいか?」の方が大事な問いじゃないか?と思ったりします。
もちろん、この問いの再設定にはいろんな反論が考えられます。
2人が仲良くしてるのは表面上の話だ、とか、新しい問いは格差を肯定することになる、とか、色々あると思います。
それらの反論は丁寧に考慮されるべきと思いますが、より大事な問いを問うことも大事だと思います。
そして、その新しい問いは、勉強ばっかりしてたら思い浮かびづらいのではないかと思います。(絶対に思い浮かばないとはもちろん言わないけど。)
格差の原因は何か?という問いをずっと追い求めていたら、その問いに直接的に答えるようなデータを必死で探すことになるからです。
結論:新しい問いを問うために、遊ぼう。世界を見よう。遊びと勉強の境界をなくそう。
新しい問いを問うためには、通常「勉強」とされる、教科書を読んだり論文を読んだり書いたりすることから一歩外に出ることが必要のように思います。
それは、新しい問いを問うためです。
この記事のタイトルの「勉強しすぎると馬鹿になるか?」は問いが間違ってると思います。
本当の問いは、「どういう勉強をしたら本当の意味で賢くなれるか?」かもしれません。
勉強と遊びの境界を無くし、遊んでいるときに勉強し、勉強に遊びを混ぜることで、新しい問い、本当に意味のある問いを問えるようになるかもしれません。
そしたら、もっと面白い世界が見えてくるかもしれません。