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シン

厭離穢土欣求浄土(仮土適当)

 散見される日本終了説、啓蒙、啓発、主義、主張、思想、哲学、道徳、宗教、その他諸々、要するにわざわざ書くまでもなく、みんな認識されていることの上書き。勿論、各々専門分野の独自的見解を織り混ぜたものには自己認識をリブートする意味で一見の価値もあるだろう。しかし、類い稀なる情報量とずば抜けた語彙力で表現されているそれらの行間から読み取れるメッセージは、恐怖心からの威嚇、絶望感からのニヒリズム、飢渇した肯定感、漲溢する劣等感、埋まらないパズルのピース等々。

 どーでもいい。娑婆の生きづらさは一切皆苦の四苦八苦。踠けば踠くほどズブズブと思考の沼に引き摺り込まれて、身動きがとれないから書くしかなくなったよーなものしか書けない。
 そんなの、どーでもいー。書いたって書かなくったって、ピクリとも動かない。

 花とか…。植物のようなもので、生えたその土地が合っているのかどうか。たとえ合ってはいないとしても、結局、そこにいるしかない。長い時間かけて、進化をとげて、見合う場所に移動してきて、それでもダメなものはダメだ。そこにいて、じっとしているわけにもいかなくて、流されて咲いている。咲けりゃまだマシ、芽も出ず終わる生命もある。
 僕の現実はそんなもんだから、書くことには事欠かない。ネタは其処いら中に転がっていて始末に負えない。負わなくていい。負ったって負わなくたって、どーせ動かきゃしなかった。どーでもいい。些末なこと。

 それより、動かないものを動かそうとして、苦しんでいられる時間も、やっぱり有限なのだから、せめて動かせる部分が少しでも動くうちに、動かして苦しんで、生きていくつもり。
 少なくとも自由に身体が動かせているような錯覚は、時に心すら自分のモノ扱いできるのだと誤解させておいて、その裏で目を細めほくそ笑む。じっと、ただじっと、破滅して動けなくなるのを待っている。残った躯だけではなく、その世界すら、まるっと絡め取って飲み込んで持っていかんとする。心に対して人はあまりにも無力。

 心は、どう感じて、どう念って、どう動く。生命活動の本質を極限まで突き詰めると、それはまるでタマネギを剥くようなもので、中身は見えないし掴めない。涙は流れるが、その意味はよくわからない。
 よくわからない。…よくわからないのだが、どうやら心は「好き」or「嫌い」で成り立っているようだ。どーでもいいことだけど、どうもそうらしい。

 ゴチャゴチャと捏ね繰り回した挙げ句の果て「好き」なものは「好き」、「嫌い」なものは「嫌い」という至ってシンプルな心がひとつ。『執着』という『煩悩』という『病巣』というロクでもないものにより生かされている生命と知る。すると、それがそのまま自分という枠を超えた生命エネルギーとして、ひとつの願いに帰着することを受諾できた。

 道を求めてきた。「好き」を「好き」にできる。「嫌い」を「嫌い」とはねる。そんな所には繋がることのないはずの道だった。この世に存在するはずもない所が、心へと繋がっていくと、「どーでもいい」と心から念えた。確かにあった心の存在だけで「有り難い」と念えた。
 意識のうえでは快を好み、不快、つまり苦悩を嫌って歩んできたつもり、道理で苦悩は消えやしない。快・不快は、「好き」or「嫌い」は同じ『病巣』にある『煩悩』にある『執着』というロクでもない心がひとつ。それを手放せるのならばこれほど楽な話はない。それを抱えたままで、その根の先に繋がり、水の様に安穏を呑む。

 安らぎ穏やかに生きる。

心を弘誓の仏地に樹て、
念を難思の法海に流す。

親鸞『教行信証・化身土巻』


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