末寺の末事 346
従いまして、『信心正因』ご信心こそが往生浄土の正しく因(種)であり、『称名報恩』そのご信心を頂戴した暁には、阿弥陀さまのご恩に報いて称名(念仏)しなくちゃなんない。いや、する。したい。いやいや、するとかしたいとかって話じゃなくて、自然に掌が合わさって頭が垂れて声となって、我々の耳(心)に届き至ってくださる仏さまだから、耳に心と書くとお恥ずかしいことです、勿体ないことです、有り難うございます。…というのが浄土真宗、なはず。
色々と付け過ぎたね。時代の影響とか世間の風潮とかに流されて、単純にミニマムでサステナブルに研ぎ澄まされた親鸞イズムは、やがてその末裔の蓮如イズムに由り、ひとりでも多くとお念仏の行者『御同朋』を育み、様々な進化変容を遂げ、それこそ多くの人々の願いや望みや手垢が付き過ぎた状態で、今まで脈々と受け継がれてきた。
ボチボチ原点回帰しても良くないか?
to be continued