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トメさんと中島軍曹

6月23日が沖縄戦戦没者慰霊の日という事で追悼式典が行われていましたね。

恥ずかしながらなぜ6月?と知らなかったので調べたところ
「旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日」
ここでは書ききれない程の悲劇があり
いつの日か沖縄に行けたら各地の遺構、史跡を巡る慰霊は個人的に行いたいと思っています。

話が変わって、少し前に書いた知覧の鳥濱トメさんのお話

こちらの中では詳しく書けなかったトメさんの話の中で6月に亡くなった中島豊蔵さんのお話を、私的に1番印象に残った話なのでご紹介させてください。

村永薫編「知覧特別攻撃隊」をベースにトメさんの語り口調を交えて記載します。
冒頭は中島さんがトラックの荷台に乗って知覧の基地へ移動中にトメさんを発見。あまりの嬉しさに荷台から飛び降りてしまいますが、その際に右腕を負傷してしまうところから始まります。

中島さんはね、私に会いたい為にトラックから飛びましたの
右手をくじいてしまって操縦桿を握る事ができなくなったんです。
私はね、中島さん、その腕をちゃんと養生してからいくんですよと言ったんですが
「いやダメだおばさん、この腕を養生してる内に日本は負けてしまう。勝たなければいけないから」
と言うんです。私はそんな腕でどうしていく事ができるの?と言ったんですが中島さんは
「どんなことをしてでもいける」
と言い張って聞きませんでした。
手が動かせなくて風呂に入ってないと言う事でしたから、私はすぐに風呂を沸かして入れてあげたの。背中を流していたらね、私が泣いたの
「おばさん、なぜ泣くの?」
と言うから、お腹が痛いのと言うたらね。
「お腹が痛いならね、明日は見送りにこんでいいですよ。身体を大事に、長生きしてくださいね」
と言うのよ中島さんがね。
そしたらね…髭ぼうぼう生えた男やった…そしたらね操縦桿と自分の首を自転車のチューブでくくっていったのよ、6月3日に…

自分が原因で負傷とはいえ、挫いた腕を治すまもなく、自転車のチューブで操縦桿と自身の首を繋いでまで出撃された中島さんは20歳
語る途中でお顔が浮かんだのか残る写真では感じない髭が生えていた様子から怪我をしてなお出撃にむけて準備をしていた事が伺えます。

沖縄戦も特攻も8月まで続いていく。きっとその場にいて終戦の日を知っていても果てしなく長く感じる事でしょう。

改めて沖縄戦並びに特攻で命を落とした皆様のご冥福を祈ります。

中島豊蔵少尉 第48振武隊 昭和20年6月3日
愛知県出身 享年20


中島さんはじめ特攻隊員の方々の死を無駄にしない日本になるよう行動していきます。

2024年6月28日執筆

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